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「「小さな狂った考え」を深刻に受け止めるということ」ワプニック解説動画

書き起こし日記

「小さな狂った考え」(T-27.VIII.6:2-3 )について解説されています。

「小さな狂った考え一節」について一説を見ていきましょう。 皆さんがよくご存知の一節です。

「全てが一なるものである永遠の中に、一つの小さな狂った考えが忍び込み…」「その時点で神の子は笑うことを忘れてしまった。」

「彼が忘れた時…」つまり、笑うことを忘れたと言う意味です。

「その考えは深刻なものとなり、」「達成することも、実在性ある結果を生むことも、どちらも可能なものとなった。」と

私たちが小さな狂った考えを深刻に受け止めたと言うのは、それが本当に起こったと信じたという意味です。

私たちは、「神から分離している」と言う小さな狂った考えが…実際に起こったと信じました。

そしてそれから、その考えに「罪深い」と言う名札を貼り付けたのです。 それは非常に深刻な言葉です。

 

私たちは神に対して罪を犯し、利己的かつ自己中心的に、神の愛を盗み、神の創造する力を盗み、 創造主と言う神の地位を横領し、

私たち自身を神とし、自分の世界を作り上げたのです。 神にこう言ったも同然です、

「あなたの愛は十分ではない。誰もそんなものを必要としない。」と

「私は自分を満足させる愛を作り出すことにする。」 「あなたの愛はそれをしてくれないのだから。」「あなたの愛は私を認めてくれないのだから」と。

 

「テキスト」の前半の中にある重要な一節が、この点について述べています。 「あなたは神に対し特別な行為を求めた」と。

特別な行為と言うのは、神が私たちを個別の存在として認めると言うことでした。

そして、神はそれを与えてくれませんでした。 それはできないことでした。

あなたは個人では無いからです。完璧な愛は完璧な愛なのです。 一体性は一体性です。二元性はそこには存在しません。

天国には、区別と言うものはありません。分化と言うものもありません。

 

「ワークブック」が述べているように、ここまでが父で、ここからは父から分離した子が始まるといった境目は、どこにもないのです。

実際、天国においては父と子はいないのです。神とキリスト、創造主と被造物といったものもありません。

なぜなら、全てが完璧に一体だからです。

ですから、「テキスト」の中には次のような一節があります。

上は三位一体の中の第一のものだが、第二のものは存在しない、と。 そして明らかに、第三のものもありません。

 

ベールのこちら側では、つまり二元性の側においては、もちろん、創造主と被造物について語ることには、意味があります。

原因と結果や、父と子についても同様です。しかし、真理においては、父と子は一つのものです。

だからこそ、私たちが神に特別な行為を求めたとき、つまり私たちに気づいてほしいと求めたとき、

神はただ愛を持って答えたのです。 愛は気付いたりしません。

愛は、ただ愛自身を見ているだけです。

 

そしてこの段落は次のように続きます。

「それゆえに、あなたは神を愛のない父親にしてしまった」と。

私たちに強い罪悪感を抱かせた罪は神に対して「居なくなれ!」と告げたと言うことについての罪であり、

これは非常に深刻な考えでした。

 

その後、「神は自分を罰するだろう」と恐れおののくようになりました。

「神を愛のない父親にしてしまった」とは、そういう意味です。

「私が神にしたことを考えれば、神は私を罰する以外にない」と。

けれども、実際には、私は神に対して何もしていません。

なぜなら、何かをする相手としての「神」は存在せず、神に対してそれをする「私」も存在しないからです。

天国には主体と客体は存在しません。ですから何も起こらなかったのです。

「天国の歌から音が抜け落ちる事はなかった」のです。

 

でも、それは、私たちには全く受け入れられません。

私たちは分離した存在でいたいからです。ですから、私たちは世界を作り出しました。

夢を作り出し、1つの思考体系を作り出したのです。

「現実」なるものを作り出し、その中で、私たちは、神に対して罪を犯し、今では、神は私たちを罰しようとしています。

それが、「深刻に受け止める」ということです。

 

ですから私たちは、神に対する罪ゆえに自分を責めて、自分がしたことのゆえに抱いた自己嫌悪と罪悪感に圧倒されています。

自分がしたことだけでなく、自分がそーゆー存在になってしまったと言う事についても同様です。

私たちのアイデンティティーは今や分離した神の子であり、そのアイデンティティーが丸ごと罪悪感にまみれているのです。

もはや私たちのアイデンティティーから罪悪感を分離させる事は不可能であるほどです。

私たちのアイデンティティー自体が、「自分は分離している」というものだからです。

 

分離しているなら、罪を犯したのであり、罪を犯したのなら、有罪ということになります。

さらに、私は罰を受けるに値するということになります。

そして、神に対する私の罪は、神から命を奪い、その命を自分に注ぎ込み、神を死んだままにしておくことだったのですから、

私は、神からの罰も同じようなものだと信じます。目には目を、歯には歯を、命には命を、です。

今や神は、私が神の命を奪ったように、私の命を奪うことになります。

だからこそ、多くの宗教儀式、特に葬儀においては、

牧師または神父「神はこの人をかくも愛したが故に、彼/彼女は、天にめされた」と。これは歪曲表現です。

それは、「神がまた同じことをしている」と言う本当の考えを否認する1つのやり方です。

「神は、ただ罰し、殺す。それだけが神のすることだ」という考えです。

このすべては完全なでっちあげであり、何ら実相に基づくものではありません。

愛に満ちた神は、これについては何も知りません。

しかし、私たちがそれを深刻に受け止めた時から始まる私たちの夢の中では、これが現実となります。

 

これが、私たちみんなが順応していかなければならない真理となるのです。

今や、命は、非常に深刻な概念となります。

ですから福音書中には、読めばお分かりの通り、どこにも、イエスが笑ったと言う記述がないのです。

そこから読み取れるのは、福音書のイエスは、この世界を非常に深刻に受け止めたからだと言うことができます。

 

なぜなら、聖書の世界は非常に深刻なものだからです。それは罪の場所です。

あまりのひどさゆえに、神は我が子を世界に送り、罪の贖いをさせなければならなかったほど…実在性があり、深刻な罪です。

だから、イエスは笑わなかったのです。ここには笑えるようなものはありません。

 

今まで話してきた文脈においては、と言う意味ですが。

それが笑えるものになるのは、あなたが夢の外側に歩出た時のみです。

テキストに戻って…「彼が忘れた時、その考えは深刻なものとなり…」 「…どちらも可能なものとなった。」

つまり、分離が起こり、実在性がある結果が生じました。それが、この世界です。

 

この世界とは、深刻に受けとられた分離の想念の、真の結果のごとく見えているものなのです。

もう一度言いますが、問題は、あの小さな狂った考えそのものではありません。

小さな狂った考えを深刻に受け止めると言う解釈の仕方こそが、問題だったのです。

このことを形而上学的な理論として理解するにあたり、非常に重要な事は、それを、私たちの毎日の生活に適用するということです。

問題は、私たちが経験する自我による襲撃ではありません。

他の誰かが経験する自我の襲撃でもありません。

問題は、それらを見るときの私たちの見方です。

もともとそれらが持っていない力をそれらに与えるような見方です。

誰かがその人なりの形で、「小さな狂った考え」を再現し、表現しているときは、神に倣ってください。

つまり、反応しないことです。

 

それは、行動面で反応しないという意味ではありません。

あなたはまだ肉体の中にいるのですから。

ただ、自分の中で反応しないと言うことです。

愛以外の何かを抱いて反応しないように、と言うことです。

他の人々の自我に、あなたの愛と平安を奪わせてはなりません。

 

もし、それがあなたの愛と平安を奪ったとしたら、それは、その人がしたことのせいではありません。

それは、あなたがその人に、あなたの愛と平安を奪い去る力を与えたからです。

あなたの肉体に、何が為されようと、あなたの愛する人々の肉体に対して何が為されようと…

それはあなたの心とは関係ありません。

誰かが騒ぎ始める前にあなたが感じていた愛と平安は、

あなたが「進歩した神の教師」であるなら、

その騒ぎの最中てある今、感じているものと同じ愛と平安ですし、

その騒動が終わった後に感じる愛と平安とも、全く同じです。

何も変化しません。

天国の歌から1つでも音が抜け落ちる事は無いのですから。

 

実際のところ、すでに述べたように、イエスをあなたの手本とするだけでなく、

あなたは、神をも学びの手本とすべきなのです。

あの小さな狂った考えに対する神の反応はどういうものだったでしょうか?

全く反応しなかったのです。

なぜなら、愛は黙しているからです。

愛は自らを与えるだけで、それ以外には全く反応しないからです。

 

はい、質問ですか?

 

質問者

私は、小さな狂った考えのことを、何十億年も前に起こったものと考えています。

ワプニック

その理由は、あなたが数十億年前に自分は存在しなかったと思っているからですね。

質問者

そう。自分に関係ないことだと…。

ワプニック

つまり、責任逃れの1方法と言う事ですね。

質問者

まさにその通りで、それが問題なのです。

ですが、先生は以前、小さな狂った考えとは、この瞬間であり、今ここでやる、と言われました。

ワプニック

確かにそう言いました。

質問者 今この瞬間に、私は自分自身を、この世界の中にいる分離した個人として経験しています。

という事は、私は今、神に向かって、「いなくなれ!」と告げていると言うことですよね?

ワプニック

その通りです。

質問者

それはひどく恐ろしいことです。まさに今ここで再現されるわけですから。

ワプニック

確かにその通りですが、そのことを真に直視して、自分をさばかなければいいのです。

つまり、自分はこれまでと同じ間違いを犯しているだけであって…

それは、神に対し何の結果ももたらさなかった、と。

自分には結果をもたらしたが、上には結果をもたらさなかった、と言えば…

助けになるはずです。

大きな助けになるはずです。

その観点から、ビルはあの質問をしました。

現在「テキスト」の4章に含まれるあの質問です。

ビルは、「分離はどうして起こり得たか」と聞いたのです。

その答えは現在「テキストの」の中に出て行きますが、それは次のようなものでした。

「遠い昔の事について、なぜ今、疑問を抱くのか。

あなたは今も同じ選択をしているのに」と言うものでした。

これは非常に実用的な答えです。

 

それは、その質問に答えているだけでなく、

実際のところ、あなたが今話しているのと同じことを言っているのです。

つまり、私たちは皆、今この瞬間に、分離を選択しているのです。

「小さな妨げ」と言うセクションの中の一節が次のようなことを述べています。

毎日、毎分、刻一刻、あなたは恐怖が愛の座を奪ったあの時間を選択している、つまり再び体験している、と。

それが、私たちが常にしていることなのです。

 

そして、時間は幻想であり、直線的な時間というものは実在しないので、

遠い昔に起こった事は、そのように見えているだけで、

今この瞬間に起こっているということです。全て同じことだからです。

 

ですから、それは巨大な恐れの源であるかに見えてはいますが、

それはまた救済のための神の手段ともなる、ということです。

なぜなら、次のように言えるからです。

「これは確かに私がしたことだし、今もしているが、それは私自身にしか結果をもたらしていない」と。

そうすれば、あなたは、微笑むことができます。 ほら、今、微笑んでいますね… 

 

 

最後まで通読ありがとうございました。今のあなたの何かのお役に立ったり響き合うものがあったら幸いです。

 

 

 

        

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