?赦しの実践日記?

 

 

ワプニック解説動画「自我が私にそうさせた」

 

 

「今日は、「自我が私にそうさせた!」という事について、お話しします。

これはもちろん、「悪魔が私にそうさせた(間がさした)」と言う形でよりよく知られているものです。

この言葉をふざけて使う人々思いますが、非常に多くの場合、これが責任逃れの方法として使用されています。

そして、「奇跡講座」の重要なテーマの1つは…

「私たちは自分が考えること、感じること、言うこと、行うことの一つ一つについて責任がある」と言うものです。

この世界は、確かに私たちの体に影響与え、変化をもたらし、私たちの体がどのように行動するかを左右しますが…。

それでも、最終的にはすべての源は心なのです。

なぜなら、心の外に肉体は存在していませんし、

「世界」と言うものを思い描いて作り上げた思考体系の外側に、その世界は存在していないからです。

 

ですから、「自我が私にそうさせた」と言う考えは、このコースを学ぶ人々によって逃げ口上としてよく使われます。

例えばどのようにしてこれが起こったのか、なぜ自分がこんなに落ち込んでいるのか、

なぜ突然怒り始めたのか、わからないというときに…。

「私の自我の仕業だ」と説明するのです。

この変形バージョンとしては…私たちの財団ではよく〈決断の主体〉について話をするので、

財団を訪れる人々が…「私の〈決断の主体〉が、私にそれを行わせるのだ!」と言います。

換言すれば、私は、自分が「悪魔や自我だけでなく、自分の〈決断の主体〉の被害者でもある」と言っていることになります。

これは、より洗礼されたバージョンであるとは言え…

自分の心が持つ選択の力についての全ての責任を私たちに回避させようと言う、

自我による非常に巧妙な試みと言う点では同じなのです。

<自我>は私に何かをさせる事はできません。

なぜなら、<決断する心>である自分が<自我>を選ぶとき、自分自身が<自我>になるからです。

<自我>であるのは、自分自身なのです。

<自我>とは、別個の存在ではありません。

テキストのはじめのほうに、イエスが実際にこのことについて具体的に触れている箇所があります。

彼はそこで、彼の生徒たちに対し、自我を、「あたかもそれが独自に行動する別個の存在であるかのように」(T-4.VI.1:3)

語っている事について、事実上、謝っているように見えます。

 

そして、彼は、聖霊についても全く同じことを言っていますが、

いずれの場合も、教育的な目的のためにそうしているのです。

それは、以下のことを認識できるように助けるための1つの方法です。

(1)自分は決断を下す心である。

(2)その決断の力は、2つの思考体系のどちらかを選ぶ力である。

 

その2つの思考体系とは以下の通りです

(1)自我の思考体系(分離と攻撃と裁き)

(2)聖霊の思考体系(訂正と許しと癒し)

それが選択肢です。この2つ以外に選択できる選択肢はありません。

 

テキストの第30章の初めに出てくる「決断のルール」と言うセクションは、このことを、極めて明確にしています。

私たちは常に選択しなければなりません。そして、選ぶことができるのは、自我が聖霊かのどちらか1つでしかありません。

それ以外の可能性はありません。選択する事は避けられず、選択肢は2つしかない、ということです。

ですから、自我や聖霊について、それがまるで別個の存在(特に聖霊の場合は人格的存在)であるかのように語ることにより…

私たちが、「本当に自分には、これら2種類の思考のどちらかを選ぶ力がある」と言う事実に触れるのを容易にしてくれているのです。

けれども、そこには常に1つの危険性があります。

(だからこそ、既に述べた通り、イエスは謝っているわけです。)

と言うのも、それにより、「自我が私にこれを行わせた」と私たちが考えやすくなるからです。

まるで、自分は自我ではないかのように…。

まるで、自分では無い何らかの力が、自分を支配したかのように…。

これでは、キリスト教徒たちが何世紀もの間、「悪魔が私にこれを行わせた」と言い続けてきたのと、何ら違いはありません。

「それは私のせいではありません。」「私はうっかりしていただけで、私のせいでは無いのです。」「悪魔にそそのかされたのです。」

「このようになったのは、私のせいではなく、悪魔の仕業です。」「悪魔が、私たちと神やイエスとの関係にやきもちを焼いているのです。」

「私は、自分で制御できない力の被害者のようなものです。」

そして、内容のレベルと言う観点から言えば…

これは、「奇跡講座」を学ぶ人々が「自我が私にこれを行わせた」と言う時と、何ら違いはありません。

ですから、ここで重要な事は「私たちは自分が感じることや考えることの全てについて、完全に自分に責任がある」と、

受け入れなければならない、と言うことです。

「自分が何を選択するか」を決めることのできる力は、自分の心の外側には存在しません。

そして、もちろん、この点が、学ぶ側から見て、このコースの中でとりわけ難しい側面だと思います。

なぜなら、それにより、自分の感情について完全な責任を持たされることになるからです。

私たちはもはや、「自分は外の世界の被害者だ」と言うことの正当性を主張することができなくなります。 (T-27.VIII.10:1)

だから、ワークブックのはじめのほうのレッスンで、「私は自分が見ている世界の被害者ではない」と言っているのです。

テキスト27章の最後の方には、次のような言葉があります。

救いの秘密は、「あなたは自分で自分にこれを行っている」と言う事だけである。

私たちが自分自身でこれをやっているのです。それは自分の決断なのです。

世界の中の他の自我たちについて、私に責任があるのではありません。

私自身や私の仲間に対してあなたの自我が行うことについて、私に責任があるのではありません。

けれども、私があなたに対してどのように反応するかについては、完全に私に責任があります。

ですから、テキストの中の「私は自分が見ているものについて責任がある」と言う言葉は、

私の目が文字通り見ている物事の責任が、私にあると言っているのではありません。

私に責任があるのは、私がそれをどのように見ているかについてです。

私に責任があるのは、「インプットされた感覚的なデータを頭脳はどう解釈すべきか」について

私の心がどのように頭脳に告げるかです。

「私は自分が見ているものに責任がある」ということの意味は:

私が見るのは、「敵意ある邪悪で意地悪な世界」か、それとも「赦しを呼び求めている世界」かということです。

そして、「私が世界をどう見るか」は、「私が同一化することを選択した思考体系」から直にやってきます。

つまり、「どちらの教師を自分の導き手にするのか」ということです。

ですから、決して「自我が私にそうさせた」のではありません。

それを知っているのは、常に、決断する心であり、それは私自身なのです。

夢の中では、私たちは決断する心です。

自分は、決断の主体としての自分が選択したものになります。

そして決断の主体は、自分が信じたいと思うものを選択します。

「分離の思考体系」とそこから生じる世界か、

それともこの夢から目覚めて家に帰るよう助けてくれる「赦しの思考体系」か、どちらかを選ぶということです。

 

 

最後まで通読ありがとうございました。今のあなたの何かのお役に立ったり響き合うものがあったら幸いです。

 

 

 

        

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