?赦しの実践日記?

 

 

 

「神への憎悪に触れる」解説ビデオ書き起こし日記

 

質問者

どうやら、私は、自分の自我の狂気を直視することについて、以前よりは恐ろしさを感じなくなっているように思います。

そして、最近、どうやら初めて、神に対する自分の恐れや雑に触れ始めているような気がしています。

「うわー!」と言う感じで、、。

 

ワプニック

なんとひどいこと! (笑)

質問者

でも、あの?、その?…

 

ワプニック

なぜそんなことを? (+他の参加者の笑い声)

 

質問者

私が言っているのは、だんだんと神に近づいていて、前よりも神を自分の中に入らせようと言う気持ちになっている、と言う感じなのですが…

私自身や神についてこの間違った想念が存在していたので… それを、私が見る必要があると感じたのです。それがそこにあったわけですから…。

それが実在しないものだと言う事は、私もわかっています。でも…とにかく、何か助言していただけませんか?

 

ワプニック

私はあなたのことを、神を憎んだりしない良い人だと思っていたのですが… (笑)

「奇跡講座」の中で、自我の思考体系について教えられていることを、私たちが本当に理解する時、、

それはセット販売の商品のように全部セットになっていると言うことが、わかってきます。

今日すでにお話しした通り、自我の思考体系は、その枠内では論理的に一貫しています。

ですから、自我の思考体系をその一部でも信じたり、真実として受け入れたりするなら、その全てを受け入れなければならなくなるのです。

なぜなら、どの部分も、他の部分と論理的に連結しているからです。

「自分が神から分離したし、神を攻撃した」と信じていながら、罪悪感を感じないと言う事はできませんし、、

そうなると、それを外に投影して、神が私たちを攻撃し返すと信じないわけにはいかなくなりますから、神を憎悪するということも、避けられません。

もちろん、前のセッションで引用した概念の場合も、同じようなことが起こります。

つまり、神に特別な行為を求めて、神がそれを与えてくれなかった時、

私たちは神を、愛のない父としてしまい、この世界を作り上げてしまったわけですが…

そのことも、事実上、私たちが神を憎む理由になるのです。

なぜなら、神が私たちの望んだものを与えてくれなかったので、そのせいで私たちはある行動に出ることを余儀なくされてしまったからです。

つまり、私たちは憎悪と罪悪感と恐れの思考体系を構築し、そこから生じた世界において、私たちは皆、惨めな存在となってしまいました。

自我の観点からは、これについて神を憎悪せずにはいられません。神のせいでこうなっているからです。

私たちは常に、神は他の誰かを非難しています。

 

「もし神が私の求めたことをやってくれてさえいれば」とか、

「私に気づいてくれるだけでいい。愛してくれとは言わない、ただ私に気づいて欲しいだけだ」とか、・・・

「ちょっと手を振ってくれれば、それでよかったのに」とか・・

「神はそれすらしてくれなかった」などと思っています。

そして、「それを神からしてもらえなかったが故に、

私は、〈特別性〉の思考体系と、〈特別性〉の世界と肉体を作り出すことを余儀なくされ・・・

その結果、こんなに痛みや苦しみをもたらしてきた」と言うことになります。

ですから、自我の思考体系を信じているなら、以上のことを避けられないし、神を憎むことも避けられないのです。

 

イエスが「奇跡講座」の中の二箇所で、「私は、あなたからの赦しを必要としている」と私たちに告げていますが、それも同じことです。

「何について彼を赦す」と言う意味なのでしょうか?それは、私が彼を憎んでいる事についてです。

その理由は、私が望まないものになるようにと、彼が私に求めているからです。

彼が私に求めているのは、、と言うよりも、私に告げているのは…私は彼と同じであるということです。

でも、私はイエスと同じになどなりたくないのです。完璧な愛でありたいと望んではいません。

私は〈特別な愛〉でありたいのです。

 

さて、私たちがイエスを赦さなければならず、私たちが彼を増をしていると言うのなら…

彼のすぐ後ろにいる存在については、どうだと思いますか? ?

西洋社会において、イエスが「神の愛」の最大の象徴であるのに、私たちがイエスを憎んでいると言うのなら、

彼が象徴している神をも憎んでいないはずは無いのです。

イエスが同じ箇所で、私たちは自分の憎悪を見る必要があると言うことも語っています。 というのも、その愛がその真下にあるからです。

あなたは、その像を直視せずに、愛に到達することができません。 神についても同じことです。その全てがひとまとまりのものなのです。

 

〈一なる子〉の一部を憎んでいながら、その全体を憎まずにいる事は不可能ですし、〈一なる子〉の創造主についても、同じことが言えます。

これは、「全てが無か」と言うコースなのです。 全てか無かのどちらかです。

 

ご承知と思いますが、イエスは次のように言っています。

「このコースは全面的に信じられるか、全く信じられないかのいずれかである」(T-22.II.7:4)

なぜなら、その全てがひとまとまりのものだからなのです。

イエスがこのコースで論じているもう一つの事は、自我とは、完璧に理論的で内的に一貫性のある思考体系だ、と言うことです。

それは、狂った前提から始まりますが…

その前提から、そのすべての思考体系が論理的に展開されます。

分離、罪、罪悪感、恐れ、投影、攻撃、死、物理的宇宙、肉体、そして、肉体が行うことの全て、すべての〈特別な関係〉…

これら全てが、「私たちは、自分の源から分離した」と言う最初の前提から、論理的に導き出せるのです。

ですから、一旦、私たちが、自分の源から分離したと信じ、源から独立して自分だけで存在していると信じたなら、、

もはや絶望しかありません。

自我はその分類を「罪」と解釈しますし、その罪にまつわる罪悪感は、私たちが罰せられることを要求します。

そして、私たちは、自分がしたのと同じように、神が応答するだろうと信じるようになります。

そして今や、神が私たちを破滅させると信じるわけです。

それが、聖書の神であり、明らかに投影です。明らかに、自我の投影です。

聖書の神は、新約聖書でも旧約聖書でも、健全な自我と同じように応答します。

 

機嫌の良い日には、私たちを愛し、赦し慈しみ、機嫌の悪い日には、私たちを破滅させたり、怒鳴り散らしたりします。

しかし、それら全ての〈特別な愛〉と〈特別な憎悪〉の背後で、「罪は実在している」と、神が信じていることになります。

 

その罪は、贖罪を要求します。

 

 

贖罪=犠牲や代償を捧げて罪を贖うこと。特にキリスト教で、キリストが十字架型上の死によって、全人類を神に対する罪の状態からあがなった行為。
贖罪=罪と罪悪感の実在性を信じる信念を形成することを意味している(テキスト5ページ参照) JACIMホームページの「贖罪」のところでは、
自我を取り消し、分離への信念を癒すための、聖霊による訂正の計画。
分離の後に存在するようになり、神の子の全員が、全面的な赦しによって、贖罪における自分の役割を果たした時に完了する。贖罪の原理は、「分離は一度も起こらなかった」ということ。記載されている。

 

そして、罪は殺害ですから、贖罪も殺害とならざるをえません。

では、私たちがそこまで罪悪感を感じているその罪の核をなしているのは、何なのでしょうか?

 

それは、利己主義です。

「自分は神を殺害した」と言う信念に触れるところまで行かなくてもいいのです。 それは、このコースの要求することではありません。

私たちが愛を破壊したとか、神の子を十字架にかけたとか… 創造の玉座にいる神の役割を横領したといったことなど…

…そうしたことに、私たちは触れる必要はありません。

なぜなら、その想念、その源は、私たちの日常の生活のどこにでも表現されているからです。

しかし、その想念の核をなしているのは、利己的な考えなのです。

それは、「私は愛の事などどうでもいい。自分のことだけが大切」と言う考えです。

「私は神の事など気にしない。神の子であるキリストのことなど、どうでもいい。」

「私は、誰のことも、どんなことも、気にかけない。大切なのは、自分が存在したいと言う自分自身の願望だけ。」

「その願望が、私が生きるためや、望み通りの〈特別性〉を得るために

、誰かや何かが破壊されたり、犠牲にされたりしなければならないような願望だとしても、それでかまわない。」

 

ワークブックの中で求められているような、多くの心の探索をするまでもなく、

私たちがこの利己的な想念を表現しているありとあらゆる形を見つけることができます。

私たちが大切にしているのは、本当に自分だけなのです。

 

ナショナリズムの確信をなしているもので、文明がもたらした大きな禍と言えるものの1つは、

私たちが自分の国のことだけしか気にかけないことです。 私たちは他の国のことなど、どうでもいいのです。

自分の国の人々が殺されることだけが気になります。その他の人々が殺されても気になりません。

 

そして、このことは、あらゆる集団に当てはまります。

人種的集団、政治的集団、宗教的集団、社会的集団、スポーツ集団などです。

私たちは、他のチームが負けても気にしません。自分たちのチームが勝つことだけを気にかけます。

1つの集団が追放されたり、虐待されたり、犠牲にされたりしても、自分たちのグループさえ大丈夫なら、気になりません。

 

私は、他人の家族のことをほとんど気にしていません。自分の家族が幸せであることだけを望んでいます。

他人の家族の食卓に食べ物がないとしても、自分の家族の必要がすべて満たされている限り、気になりません。

この世界の中にいる者は、誰一人、その利己主義を免れる事はありません。

だからこそ、肉体が作り出されたわけです。

 

肉体はいつでも、「私に注目して!」と叫んでいます。

「食べさせてくれ。息をさせてくれ。飲ませてくれ。与えてくれ。私には必要がある」と。

そして、私たち全員に必要な酸素や水や栄養といった物理的なものとは別に、私たちはみな愛を必要としています。

私たち全員が注目されることを必要としていますし、それを要求します。

 

「もし私があなたから目をかけてもらうことが、誰かがそれを失うことを意味しているのなら、それは残念だが仕方のないことだ。」

「自分が職場で昇進すると言う事は、自分の昇格に伴い他の誰かが引きずり下ろされると言うことを意味しているとしても、それも仕方がない。」

「私が自分の世界を手に入れるために、神がそこから除外されなくてはならないのなら、そのようにするしかない。」

 

それは恐ろしいことです。そして、もちろん、私たちはその恐怖を、投影してしまいます。

ですから、神の声で、私は恐れおののいている、ということになります。

私たちは、自分に罰を与えようとする神には、慣れ親しんでいます。

 

だからこそ、聖書は2500年もの間、西洋社会で最も人気のある本であり続けているのです。

それは、私たちの自我の思考体系を強化するような神や、救世主や、神学を与えてくれるからです。

そうした神を、誰が愛さずにいられるでしょう。

ですから、私たちを磔(はりつけ)にしようとする神に、私たちは非常になれ親しんでいるのです。

なぜなら、神が私を怒っているなら私が神に何かをしたという意味になるからです。

つまり、私は本当にそれをしたのだから、自分は確かに、ここにいて、存在しているということになります。

 

私たちが、「自分は肉体であり、物理的で心理的な生物であり、他のすべての同様の生物から分離した存在だ」と信じている限り…

私たちは、神のことも同じようなものと見ないわけにはいきません。投影が知覚を作り出すからです。

私が自分を何であると信じているかが、「私は神をどう見るか」を含む自分の知覚の仕方を決定します。

ですから神も、一つの体と言うことになります。私と同じような肉体では無いかもしれませんが、一個の存在と言うことになります。

 

神は個性を持った個人であり、人格である、ということになります。

「奇跡講座」の中で、神は一つの人格のように語られていて、「父」と呼ばれていたり、

「彼」という代名詞が用いられたりはしていますが… 神は人格ではありません。

人格的な言葉遣いがされているだけです。それは聖書の言葉遣いから来ています。 ユダヤ・キリスト教の伝統的な言葉遣いです。

しかし、それは神ではありません。神は肉体では無いのです。 ですから、こうしたことに触れる事は、非常に助けになります。

 

そうは言っても、心の中に入っていて、それを無理やり引っ張り出さなければならないと言う意味ではありません。そんな事はしないでください。

それは、表面化すべき時に、表面化します。ただし、それが表面化したときには、驚かないようにしてください。 

 

 

声に出して読んだり、書き起こしをするととってもいいですよ。

特にテキストなどの読み込みで「睡魔」と言う抵抗に遭遇したら、書き起こし作業はおすすめです。

 

 

最後まで通読ありがとうございました。今のあなたの何かのお役に立ったり響き合うものがあったら幸いです。

 

 

 

        

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