〜赦しの実践日記〜

 

 

 

 

8月21日にJACIMにアップされたワプニック先生の解説動画

何箇所も、「本当にそう」「本当にそう」と頷きながら、大きく安堵感に包まれるような一流の「解説」である。

ワプニック先生の書物にしても動画にしても、とにかく一流の「解説」の宝庫!!

どう考えればいいのかを、本当に懇切丁寧に教えてくれる教師で本当に超一流の教師だなって思う。

「奇跡講座」の三部作は、ワプニック解説を水先案内人して学んで実践していくのが本当におすすめである。

 

 

解説抜粋1

そして、最終的には、「不幸で、怒っていて、落胆していて、不安で、恐れていた自分」を、

「前よりも平安で、親切で、柔和な自分」へと交換しているのだ、ということが本当にわかるようになります。

それらが、中間的なステップです。

そして、いっぽずつ進むにつれて、「もしかしたら、私は自分で思っていたような人間ではなかったのかもしれない」と、認識するようになるのです。

 

随所、随所で、これを本当に体験していく。これは本当に「豊かな経験」だなって思っている。

どう豊かかって、言葉にできない。感じたこともないような「豊かさだ」

この世的な成功とは無縁だし、そうゆうことを一切お手伝いしてくれる様な助けでもない。

だから、夢を実現していく的なことに興味のある人にとっては、専門外で全く役に立たない書物かもしれない。

でも、この世に属していない与えられている自由や幸せを享受していくという関しての助けとしては

スーパーエキスパートだと思う。

 

自分にひどいことをした人のことを水に流してその人と和解するでもなく(思考の逆転の中で語られている様に)

我慢するでもなく、肯定してしまうでもない生き方

「罪」がないとわかるところまで戻って、そこで訂正を受け入れていく生き方!!

この実践で、「裁き」などの「攻撃性」、「怒り」、「不甲斐なさ」、「痛み」「執着」などが「愛」「平和」「穏やか」に

変容していくのだ。この体験は、物理的な成功では得られない種類の幸せだと思う。

元々、私の場合は、欲していたのは、永遠の幸せ。

そして私の場合「幸せ」が何処にあるかまでは理解できるところまで学びが進んでいなくて

苦しみから永遠に解放されたって思いは強烈にあったけど、自分が探している「幸せ」が何処に属すものなのか、

何をできる様になるとそこにいけるのかということ自体を知らなかたので

本当に苦戦だったな。

色々な実践や経験を経由しないと、ここまで来れなかった。

でも、思いがあれば、結局たどり着けるということを経験から学んだ。

 

そもそも自分が求めている幸せは、痛みや緊張や人を悪く思う気持ちや羨望や嫉妬、攻撃性の根元を手放していかないと

手に入らない種類の「幸せ」だったことに気づくまでにも、ここまで来ないと、気づけなかった。

そりゃ〜〜「ここ」にあるんじゃ、やりたいことをやって見ても出会わないわけですよ。って思う。

自分を何処にある「幸せ」を求めていて、何を模索しているかすら見えない状態の中、進んできたな〜〜って思う。

 

 

学びには色々なジャンルもあるし、その「実力」も色々、でも思うのは、どんな分野でも実力ある人の言葉は

実力があればあるほど非常に内容が詳細で具体的

多分、感情の根元にアクセスして感情の源泉になっているものを取り消しができる実践のサポートの

分野にかけては、一流の教師に自分は出会えた様に思う。諦めることができずやってきてよかったなと思う。

自分が攻撃の源を突き止めて解放したい一心だったけど、これが、霊的進歩の道の中にあったとは夢にも思わなかった。

 

 

語学にしても、会社立ち上げにしても、自分の本気度、意欲の高さや努力に見合った人に、やっぱり出会って教えてもらえる現状からみても

そうゆうものなのだな〜って思う。ソフトバンクの孫さんが「恐ろしいほどの情熱で・・・」って自分で表現していたけど、

日本で一兆円企業にした孫さんの努力たるや、確かに「恐ろしいほどの情熱」という表現の中で表されている様に思う。

 

何でも自分の意欲の高さや努力の量次第だなって。ちょっと、そう思うとやっぱりワクワクする。

それから、幸せの道から横道にそれないためにも、謙虚に生きることは肝に命じて大切だなって。

 

 

世の中には、他者の不正を「裁く」ことは別に自分が苦しむことには繋がっていないと思って他者の悪事を「裁いている人」って

遠くを探さなくても簡単に身近に見ることができる現実だと思うのだが、

不正行為に対して懲罰したくて、それを主目的に行動して、みんなの同意を求めて、悪事の当事者を追い込もうとするのも

自分が攻撃に魅力を感じ、それを主目的にして生きているなんて気づけないから行動してしまうのだろう。

他者の不正や悪意に見えるものを裁いたり、誹謗しても、自分には「痛み」を一切伴う危険性はないと信じているから裁けてしまうのだと思う。

(だからと言って、他者を傷つけてしまう人を野放しにしておくこととは違う)

 

事実を知ったら、頑張って踏みとどまって行こうと試みる。最初は、分離強化の思考を信じながら、訂正の方を受け入れていく試みをするので

どうしても、大変な時期を何度も通過していくが、やらないよりは、努力した方が、体験が変容していくし

認識も被害者の視点から外れていくプロセスが始まっていくので、楽になっていく。

 

 

裁かれたと感じる経験をしても、他者の行為の中に罪をみて裁かないことだし、幼少期などの虐待などの経験によりこんがらがってしまって

分離の想念が手放しにくい場合は、ヒプノとか、心理学とかそうゆう療法の助けを借りて

鬱積した思いを浄化していくプロセスを経由してから、コースの赦しにアクセスしていくと

そうゆうことが自分の苦しみの原因ではなかったと思い出せるところまでいくので

一つの癒しのプロセスとしてオススメのプロセスだ。

 

考えてみてほしい。裁き・恐怖・不安から完全に解放された自分の状態を・・・・

最高だ。

 

自分が「赦し」を実践していて思うのは、

自分がこんなにも「裁き」の法に従って一生懸命だったのかって。こと。

自分の不幸は、この世の立場や持ち物に全く依存していなくて「裁く」ことにあったのかって!!

しかもこんなに「裁いていたのか!!」って

自分でそれが理解できるところまで自覚を取り戻せた時「裁き」の意味やその「害」について本当学べてよかった!!って思った。

 

 

「裁き」を手放すと、いつの間にか、この世界の価値観から解放されていて、幸せでいられるようになっていたり

「裁き」を手放していくと、いつの間にか、「優しさ」や「思いやり」と「裁き」が入れ替わっていて、自分が悪人から善人になったように感じられる。

これは、決して自分が崇高な人格者で性格がいい人間になっているというよりも、性格のいい教師を先生とする様になり善人の様に感じられるという感覚だ。

性格のいい教師を教師としてこの世界を生きると、随分と触れていて心地いい経験をするようになって、赦しってすごいなって思う

 

解説抜粋2

身体的な疾患は誰でも経験することがありますが、そういう時に、あなたが何をすべきかと言えば、

あなたの助けになるどんなやり方を使ってでも、肉体をいたわるということだと思います。

そこには、正しいやり方も間違ったやり方もありません。

この世界には、ありとあらゆる種類のやり方があります。

あなたは、ただ、自分にとって最も安心できて、効き目があると感じられるやり方を選べばいいのです。

そして、それを、あなたが「奇跡講座」を学ぶのを阻む「障害物」として使用しないことです。

ただそれを、たとえ自分の肉体が衰弱していても平和でいることを学ぶことのできる <教室> 〈教室〉とみるのです。

たとえ、私の問題が慢性的なものであり、そこからは決して逃げられないとしても、私は平安でいられると言うことを学ぶことができます。

たとえ、私が残りの人生においてずっと薬を飲み続けたり、あれやこれやの治療を受けなくてはならないとしても、私は平安でいることができます。

自分は肉体を実在するとみなしているとか、自分はこのコースの落第生だとか、こんな事は既に超えられているはずだとか、

私は夢から目覚めるべきなのに…などと嘆いているなら、そのやり方では決してうまくいきません

これ、本当にそう。目覚め系で体験したが、うまくいかない。しかも本当に「決して」

 

そのようなことをするよりも、自分の肉体を優しく柔和に扱い、そのケアをする方が、よほど霊的な進歩に役立ち、助けになるのです。

「Yes」「Yes」「Yes」ここ激しく同意!!!

コースを学び実践していくと、とにかく恐れ裁きの気持ちから解放されて感じたことがないような安堵感を経験し幸せになっていく。

 

 

以下「病気」の解説動画の書き起こしです。

 

 

質問

私は自分の病気と言う問題についてずっと考えてきたのですが前回ここにきて以来、

私が理解するようになったのは、私が今「自分のアイデンティティーを手放す」ということに取り組んでいるのだと言うことでした。

「なぜ私は、この病気を患っているのか」とイエスに尋ねたときに、思い浮かんだのが、そーゆーことでした。

つまり、「子供の時からずっと持ち続けてきた自分のアイデンティティーと言うものを手放す」ということに取り組んでいる、ということです。

けれども、私が気づいたのは、「未来がどうなるのかわからない限り、それを手放す事はできない」と、自分が感じている、ということでした。

どうすればそれを手放せるのでしょうか?

 

ワプニック

ある意味では、それが自我の罠なのです。

朝の講義でも述べましたが、それについては、自分自身を失うことのように捉えずに、次のように考えた方が、助けになります。

このプロセスを進んでいくときには、「パム」という名前の自分と言う感覚を失うと考えずに…

あなたが失うのは、落胆、不安、心配、怒りなど、また、あなたに苦しみを感じさせる自我の諸々の想念や感情等であると、考えるということです。

そうすれば、それらはもっと扱いやすいものとなるのです。

なぜなら、あなたは、起こらないことや、落胆しないことや、気分が悪くならないことなどが、どう感じられるものなのかわかっているし、

それは気持ちの良いことだとわかっているからです。 ですから、あなたは次のように言うことができます。

「もし、これらの裁きを手放し、不安を手放し、正しくありたいとか被害者でありたいと言うような思いを手放したなら、私はもっと気分が良くなるだろう」と。

そして、私たちはみな、「良い気分」とはどういうものか、大体わかっています。

そして、あなたがそれをやり続けているうちに、「気持ちが良くなる」という感覚がどんどん深まっていきます。

そして、そのプロセスの最後に、「パム」と言う人が消えていくのです。 しかし、それは最後の最後でのことです。

いわば階梯の最上段において起こることです。ですから、あなたは自分をパニックに落とし入れる必要は無いのです。

だからこそ、先ほど引用した文言があるのです。

「自分が不意に引き上げられて実装の中に投げ込まれるのではないかと、恐れることはない。」(T-16 .Ⅵ.8: 1 )

そしてもっと後の方で、悪夢から目覚めへと直行する事はないという事についても語られています。

途中に、幸せな夢、つまり、幸せな「赦しの夢」という中間のステップがいくつもあります。

ですから、それをいっぽずつ進んでいくのです。そして、それらのステップがあるという事は、

依然としてあなたにはアイデンティティーの感覚や、「自分」という感覚があるけれど、今では、それは以前よりも幸せな「自分」になっている、ということです。

 

質問者

でもそれが「死」ではないと言うことが、どうしたらわかるのでしょうか?

ワプニック

自我は、それが死であるとあなたに告げます。

自我は、こう言います。

「もし私が被害者でないのなら、そして、もし私が他者が私にした事の被害を被っているのでないのなら私は存在しなくなってしまう。

なぜなら、私が知っている唯一の“自分“とは

「不当に扱われて、被害を被っていて、何とか生きていくためにはこれら全ての防衛を必要としている存在なのだから」と。

ですから、少しずつ進むのが良いのです。少しずつ穏やかに進んでいけば…

「私は自分を失いつつあるのではなく、自分が消えてしまうのでもない。死につつあるのでもなく、前よりも幸せになっているだけだ」ということが、

わかるようになります。 朝起きて、しかめ面をして、「なんてことだ、私はまだここにいる」とぼやくかわりに、

目を覚ましたとき、前よりも少し幸せでいられると感じられます。

ですから、自分は何も失いつつあるのではないと言うことがわかるようになってきます。

そして、最終的には、「不幸で、怒っていて、落胆していて、不安で、恐れていた自分」を、

「前よりも平安で、親切で、柔和な自分」へと交換しているのだ、ということが本当にわかるようになります。

それらが、中間的なステップです。

そして、いっぽずつ進むにつれて、「もしかしたら、私は自分で思っていたような人間ではなかったのかもしれない」と、認識するようになるのです。

 

質問者:

「常に自我の中にとどまるのではなく、常に神と共にいる」と言う状態に到達するには、人は死ななければならないのではないか、と私は時々思うのですが…。

 

ワプニック:

「人は…?」の後、何とおっしゃいましたか?

 

質問者:

「…死ななければならないのではないか」と。 この世界の中で、自我を持たず生きることなどできるのでしょうか

 

ワプニック:

ですから、そこでも、やはりあなたの自我があなたを罠にはめようとしていると思います。

「存在しなくなる」ということについて、自我があなたをあまりに恐怖させているので、あなたは「こんなことはしたくない!」と言うわけです。

どの数字でもいいですが100と言う数字を使うなら、あなたの恐れているのは100番目のステップに相当します。

けれども、その手前の99のステップにおいては、あなたは死んだりしませんし、存在しなくなるわけでもなく、

ただ少しずつ、もっと幸せに、もっと平安になっていくだけなのです。

ですから、そのことに意識を集中させればいいのです。

他の想念がやってくる時と言うのは、単なる「自我の策略(企てもくろみ)」なのです。

その策略は、自分を怖がらせて、全てを放棄させようとします。

また、「今やっていること」から、注意をそらそうとします。

そして、「今やるべきこと」とは、「自分には選択する力がある」ということを、昼夜問わず思い出そうとすることです。

だから、「不当に扱われている」とか、「自分が無力だ」とか感じる必要はないと言う事…

そして、「幸福になる事は罪ではない」ということを覚えておくよう努めることです。

ですから、覚えておいてください。 この世界の中で生きることで得られる貴重なレッスンは…

「変化を常とする世界の中で生き、絶え間なく変化し続ける肉体の中に生きていながらも、そうしたことに、内なる平安の恒常性を奪う力を与えない」

というレッスンです。

自分の肉体やその必要に注意を払い、その情緒的な側面にも物理的な側面にも注意を払い、他の人々についても同様に注意を払いながらも…

…同時に、そうしたことに対し、あなたの心の中の平安の普遍性を奪う力を与えない、と言うことです。

そして、このことが何の助けになるかと言うと、「自分の肉体がいつも、病気の事とか、あれが必要だとかこれが必要だとか言ったことを気にしている」

ということについて罪悪感を持たずにいられるようになります。

自分のことを失敗作のように感じさせる力を、それに与える必要はありません。

自分の平安を奪い去る手段となる力を、それに与える必要は無いのです。

苦痛はあるかもしれません。身体的な痛みや心理的な痛みがあるかもしれません。

けれどもあなたのなかの愛「すなわち真理」が変化する必要は無いのです。それは揺るがないし、衰えることもありません。

そこに置いてこそ、このコースが非常に実用的なものになるのです。

前にも述べた通り、毎日あらゆる瞬間に、私たちはその力を投げ捨ててしまいたくなる誘惑にさらされているということがわかるからです。

 

質問者:

医者から、「あなたの内分泌腺は正常に戻らないので、その症状に対処しなくてはならない」と言われていて、

そのことが肉体が実在していることを常に自分に思い出させるため、怒ったり落胆したりしている時…

今おっしゃったようなやり方で肉体を越えるにはどうすれば良いのでしょうか?

 

ワプニック:

肉体やその問題を超えていく方法は、あなたが信頼してみてもらっている医療関係者のオススメ通りに自分の肉体をいたわると同時に…

そのことを、何らかの恐ろしい症状とはしないようにする、と言うことです。

ただ次のように言うのです。

「私は肉体の中にいて、私の肉体は正常に機能していない。

そして、肉体が少しは良くなるのを助けるためにできる事はこれだけなので、私はそれをするつもりだ。

けれどもそれはそれ、他の事には関係ない」と。

換言すれば、それを深刻なものにしない、と言うことです。

あなたの自我は、次から次へと地雷を仕掛けてきているだけなのです。

身体的な疾患は誰でも経験することがありますが、そういう時に、あなたが何をすべきかと言えば、

あなたの助けになるどんなやり方を使ってでも、肉体をいたわるということだと思います。

そこには、正しいやり方も間違ったやり方もありません。

この世界には、ありとあらゆる種類のやり方があります。

あなたは、ただ、自分にとって最も安心できて、効き目があると感じられるやり方を選べばいいのです。

そして、それを、あなたが「奇跡講座」を学ぶのを阻む「障害物」として使用しないことです。

ただそれを、たとえ自分の肉体が衰弱していても平和でいることを学ぶことのできる <教室> 〈教室〉とみるのです。

たとえ、私の問題が慢性的なものであり、そこからは決して逃げられないとしても、私は平安でいられると言うことを学ぶことができます。

たとえ、私が残りの人生においてずっと薬を飲み続けたり、あれやこれやの治療を受けなくてはならないとしても、私は平安でいることができます。

自分は肉体を実在するとみなしているとか、自分はこのコースの落第生だとか、こんな事は既に超えられているはずだとか、

私は夢から目覚めるべきなのに…などと嘆いているなら、そのやり方では決してうまくいきません

「奇跡講座」は、自我が危害を加えるために作り出したもの、聖霊は癒すために使用すると述べています。

自我は、私たちを真理と上から引き離しておくために、すべての人々の肉体を作り出したのと同じようにあなたの肉体も作り出しました。

そして、そこには罪悪感が存在しますから私たちは常に、自分の肉体の中に罪悪感を感じます。

究極的には、それが病気というものです。 けれども、今、それは神聖な目的のために働くことができます。

そこでは、あなたはただ、「そう、これは罪悪感から来ている」と言うだけでいいのです。

その詳細を理解する必要はありませんが、それ以上自分自身を罰する必要もありません。

そして、自分の病気の体を使って、そのために必要な事は何でも行いつつ、

それが「本当の自分」を妨げることにはならないと学ぶ1つの方法とすることができます。

そうすれば、たとえこれからの人生において身体的にはずっと病気であるとしても、あなたは平安でいられます。

そして、もしあなたが、残りの人生において体は病気であっても平安でいられるのなら、あなたはもはや病気ではありません。

あなたの体には何らかの症状があるかもしれませんが、あなたの心は癒されています。

あなたがそれに、自分を支配する力を与えていないからです。 これが、先ほど話していたことです。

私たちがいかに人々や状況や物事に、自分を支配する力を与えているか、ということです。

肉体は、そうした物事のリストのトップランクに位置します。私たちは、肉体に、自分を支配する力を与えています。

ですから、症状があると言うことで動揺するのは肉体に自分を支配する力を与える1つのやり方なのです。

そして、何がそれを越えさせるのかと言えば、やはりそういった症状の治療を受けながらも…

「それでもこれには本当は何の意味もない」と認識することです。

たとえ残りの人生でずっと、この症状が続くとしても、構わないのです。

そのことが、私を病気にしているのではないからです。

病気と言うのは、そうした症状があることを理由に私は動揺することの中にあるのです。

覚えておくべきは、「真理は、あなたの心の中の誤りを訂正する」(レッスン107)のであって、

肉体の中の誤りを訂正すると言っているのではありません。

ですから、これが、あなたにとっていかに貴重なレッスンとなるかを、考えてみてください。

そして私は、あなたの残りの人生において、その症状がずっと続くだろうとか、続くべきだとか、言っているのではありません。

私が言っているのは、単に、もしもあなたがそうした症状を患っているのなら、

それは、「それでも私は平安でいられる」と言えるようになるための、素晴らしい学びとなる、と言う事だけです。

 

質問者:

わかりました。

 

ワプニック:

けれども、大事な事は、それをゆっくりと、優しく、あなた自身を思いやりながら行う、と言うことです。  

 

最後まで通読ありがとうございました。今のあなたの何かのお役に立ったり響き合うものがあったら幸いです。

 

 

 

        

                                                                  トップページへ戻る

                                                                 日記トップページに戻る


 

           ACIMを深く学ぶウェブサイトのフッターライン      
                 真実に生きる!実相世界で生きる「奇跡のコースの学びが深まる」 はKKCが運営しています。
                    Copyrights(C)2012 DAINISHINSOTU CO.LTD All rightsreserved