赦しの実践日記

 

 

 

7年くらい前に、ロスに向かう飛行機の中で放送されていた「ソースコード」という映画を見た。

自分の体験していることとリンクして、非常に面白く感じ、周りの友人にお勧めしたほど印象に残った映画だった。

しばらくして、日本で「ミッション・8・ミニッツ」というタイトルで上映されたのだが

一時期は、DVDを購入して見たほど表現が興味惹かれる映画だった。

 

 

主人公の俳優さんのコメント合わせてみると面白いかもしれない。

監督のインタビューもユーチューブ動画で、監督自身は人間関係・恋愛を描いたと語っていた。

友人と、驚いて(何処に恋愛要素があったのだろうか・・・と発信側と受信側の相違があまりに巨大で爆笑した経験だった。)

冗談で、そのインタビュー動画に向かって突っ込みを入れていたが

発信側が発信して受け止めて欲しいものと受信側が受け取っているものに接点がないという

ことは驚くべき体験だった。娯楽で楽しむような「映画」ですら、こんなに解釈に相違が起きるということは

「奇跡講座」のようなラディカルな思考体系を自分のものにしていく場合、

並大抵の努力を求められるような学びだなと学べば学ぶほど

感じるようになっていっていることである。

 

 

「今のは寝ている時に見た夢だったんだ・・」とは、どうしても思えない体験。

確実に体験しているとしか言いようのない体験

その夢は、私が車を運転していて、ハンドルを切れきれず、崖から落ちてしまって「死んだ」

その瞬間に、目が覚めた。

その目覚め方が、寝ている間に夢を見ていて、目が覚めたという体感で目覚めたのではなく

今の自分の人生だと思っている現実になった。という目覚め方だった。

この体験を通して、私がまた深く再認識したことは

私たちにとって、現実というのは、無数のパラパラ漫画の連続の

寄せ集めを、連続した直線だと勘違いしているだけだということだった。

交通事故で死んで、この人生に目覚めるというインパクトの強い体験は、

「死」は隣りのお部屋にいくよりも、もっとナチュラルに移行していくみたいな感じだったので

実は人生を直線的に生きているように見えて、「そうゆうことではない」ということをこの体験でまた再確認。

JACIMのQ&Aに記載の【質問16】 輪廻転生についての質問の「再訪」という概念が思い出された。

私は心のどこかでこの世界の中に幸せがあったり不幸があったりするんじゃないかという

思いが何処かにまだあるのだが、歳を重ねるごとに、そして色々な癒しやスピリチュアルの教えを実践して

フィードバックとしての経験と、「奇跡講座」にたどり着いて勉強するようになって

「幸せ」とは自分が考えているようなものでは全くないと最近につくづく思い始めている。

そう思うようになったのは、そもそもきっかけは、

引き寄せの法則系やニューエイジ系のスピリチュアルが提案している

「現実は自分が作っている」という考え方を実践して得ていく体験が、

最初は、ある意味でニーズが満たされていくかのように感じよかったが

発信側のセミナー団体が巨額な借金を抱え破産するというこの世的事柄は、

最初は、外側(引率者とスタッフ)に意識が向いたが、

そもそも「全ては周波数、現実は自分が作っている」という考え方自体に

何かは、わからないけれども、そもそも矛盾が含まれているのではないか・・・

考え方、視点自体の中にそもそも矛盾が含まれているのかもしれないと感じたことが最初のきっかけだったが

(自分が調和になれば調和な現実になる。でも外には何もない。でも外を調和にするには自分が調和であること

でも外は何もないし、外をよくすることではない。

外は何もないと言いながら外側の現実の調和は自分が調和で初めて調和になる。

調和な現実を作ることじゃない。でも自分が調和でいると調和な現実になっていく・・・

一見矛盾していない理屈なようにみえる。

運営者側の派手な破産という不調和の外的状況・・・しかし、外には不快の原因がない、中にある。

何処までいっても解せない外的状況と内的状況の関わり合いの押し問答。)

「奇跡講座」にたどり着いて勉強することで、

(ついでながら、特にワプニック解説を水先案内にする独習の学びの道は←
本当に地道で地味となり、コース関連の花形教師や誰かを教師として学ぶというような学び方とは相当かけ離れている)

言葉にすることはできないけど感じる矛盾・・・でも、結局何処までもグルグル回るだけで、答えが見つからないループから

自我から完全に解放された視点から教えてもらうことで初めて見えることが可能になって脱することができた時は

ハリーポッターの映画を例えで言えばヴォルデモートを倒すための分霊箱の一つめの「トム・リドルの日記」を見つけれた感じでしょうか。

「奇跡講座」のマニュアルの中に

「この世界では相矛盾する2つの言葉を1つにつなぎ合わせておきながらその矛盾を全く知覚しないという、驚くべき傾向がある。」

という一節は、何度読んでもあまりに完璧な答えすぎて返す言葉がなくなります。

 

 

「奇跡講座」自体が、原因についてのコースで結果についてのコースではないという時点で、既に

何やら、自分が「〇〇が幸せ」などと思っていたような領域を超えている話だろうし、領域を超えていく話なのだと

何となくはわかるが、勉強して、実践していくと思っている以上に、自分が信じているものの視点から見ていくと

相当ラディカル(過激・急進的)な思考体系なので、
(最初から、すごい深さだと感じたし、とにかく違うというのはわかっていたし、そのつもりでも
これは勉強し始めて5年くらい経過して自分が思っている以上だと更に気づき始め、最近は、イヤこれは本当に自分たちが思っている以上に
相当ラディカルな、(加藤さんから何度となく聞きた言葉で、本当にこのコースは自分たちが思っている以上に深く、
こんなことを言っているコースだと思わなかったと思うほど本当に深いという意味がやっと少しわかってきたかもしれないと思うほど、あれ?って
思うくらい思っているものと違うと思う感情が出てくるほどラディカル)ことに気づいていっている感じです。

自分のものにしていくには、誠実さを持って絶え間ない努力なくしては

絶対に習得不可能な学びだなと思うに至ったし、真剣な真面目な取り組みが求められるものだということは

最初に説明された通りだなと逆に年数が経過して意味が通じ合点がいく話だった。

 

話は死んだ夢の話に戻るが、

他の夢を見ている時は、こちらで経験していることは、どんなに大事にしていると自分で思っていることでも

完全に忘れている。だから結局夢なのだ。
(※注 夢だからどうでもいいとか粗末にしていいとか適当に生きていいという意味ではないです。)

 

寝ていてこの「生」に目覚める瞬間、他のシーンもいくつも見えて

あの人、何度も何度も見たことある。あの人生では気づかなかったけど

あの時のあの人で、非常に親しく好意を抱いて接してくれている人だったんだと

夢から覚めると同時に、この夢のストーリーがスタートし始めるときに

思い出す経験を何度かしたり、この夢の中で電車の中で偶然のように同じ車両に乗り合わせて、思い出せないけど

絶対何処かであったことある・・・と思って、「えっと何処だっけ・・・何処だっけ・・・

あっ、寝ている間に出てきた登場人物だ・・・」という経験も何度かあって

どの夢も不思議な関係で、こうゆうことも、どうゆうことなのかな〜と思う節もあるのだが

いつかわかる必要がある時に知るようになるのだろうと。

 

 

 

 

 

最後まで通読ありがとうございました。何か響き合うものがあったら嬉しいです。

 

 

 

        

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