〜赦しの実践日記〜

 

 

 

次元を切り取ったこの意味深い写真

いつ見ても何だか、ワクワクする。

 

目覚めていくって奥が深い。

 

自分が現実だと思っている現実は実は思い込みの投影でしかない。

 

裁くものは裁かれる。

疑念の余地など入る隙間もないほど

分離を信じている私にとって、この言葉自体が裁かれているような気分のする言葉に感じていたが

自分の心の中にある真の自己からのメッセージを導き手にしていけるようになれる手引書に触れるようになって、

その言葉に耳を傾けるようになって歩むことの価値の大きさに気づけるようになった。

そして、この世レベルという自分の日常の場面で、その「教え」を適応するようになって

隙間ができ始めていくたび

見え方や感じ方が変容し、益々、自分が何を信じているから(または信じていたから)

そう感じ、そう見えていたのかがわかるようになって

益々「裁く」は、自分が信じている「罪」の原因を外に見て、「被害者」になっていないと、できないことにも気づく。

そうゆうことが自分で見え初めて「裁き」って、するべきものではないんだって気づけて

気づければ、おのずと、自然に「裁き」や「裁きの根元」を手放していく方に努力をしていく。

そもそも、自分を楽園から追放したのが神だと信じることがなかったら

罪は誰にも影響をすることはなかったわけで、

そもそも分離したくて、自分で企てている全部の妄想。

 

 

 

行動を掻立てる信念は何か・・・・

自分が信じているからその行動をとるのであって、自分が信じているものが何かがわからなければ、行動を止めてはいけない

 

それこそ、原因のところまでこなければ、必然的に行動レベルや事柄レベルではそれを止めることはできない。

コースを学んで実践していくことの恩恵の一つは、この世のレベルと心のレベルでの分別できるようになる点、

この世レベルでも生きやすくなっていく。

 

この世レベルでの愛以外の行動に関して、寛容になることでもないけれど裁くことではない。

厳しい態度は必要な時もあるけれど、それは、その人を辱めたりバカにしたり軽蔑する目的で行うことではなく

更生していけるように、関わることが関わりであって、他者が行う愛以外の行動を見たとき、自分がそれについて何か「裁き」があるなら

自分がその行動をさせる根元まで戻って訂正を受け入れて

そこで見えてきたことで動かないと、本当の意味で、愛情から動くことはない。

 

私たちは、真の自己の愛情が必要なのであって、自分たちの偏った愛情は必要としていない。

悪行に対して「裁き」を先生としてアクションを起こしたり関わっても、双方に益になることはなく、何ももたらしてくれることはない。

私たちは、真の自己に従うことができるだけで、誰かの先導者になったり指導者になったりすることの

できる存在ではない。

このことをコースを学んで実践していくうちにすごく見えていき知った。

深くこのことを理解できるようになるごとに視界は広がり風通しがよくなり、広がり感がよくいい航海だ。

 

真の自己と旅をし始めると、旅は健やかなものになるな〜と思う。

教師は真の自己で自分は教えてもらっている生徒。

教師はただただ、先導してくれる、光とともに旅をする旅は快適である。

 

 

三部作は全部真の自己からの答えだったことに気づいて、時間というのが深いところからホッとするものとなっていくことに変容している。

(これはコースだけが真の自己からの唯一のものという意味合いではない。ということはお断りしておく)

コースは、分離を信じている心に与えられた一つの助けで、分離を信じている心が分離強化のメカニズムに気づき

そのサイクルから抜けられるようにしている手引書で、聞く気のあるものには聞こえてくる声のようなものだった。

声なき声が語る語りは非常に安心感を与え、経験からも実感するが、正しく導いてくれる意味で実にほっとする。

本当のただしさとは、誰のことも仲間はずれにすることのない導きで

その視点は触れていて、あまりに完璧で美しく、納得感に満ち、脱帽する。

 

 

私は随分、「裁き」の意味を理解もせずに、この世の中に問題があると思って、随分「裁き」を正当化して行使してきた。

この世レベルの相手の悪行に被害者の私は孤軍奮闘して被害者として加害者に「裁き」を向けて攻撃し、勝利を勝ち取っていく。

いくら、このサイクルを繰り返しても、被害的経験も減少しないし、加害的な人との遭遇も減少していかない。

時間というものが、そのような経験で埋め尽くされている。

喜びも悲しみの外側に依存しているものばかりで

不毛な人間関係のこのサイクルから解放されることがなく

信頼関係とはどのように構築されていくのか、どうしたら豊かな人間関係を自分は経験できるのかと常々テーマとして考えたものだった。

本当に豊かである。

一歩一歩進んでいけばいいだけのシンプルな道

私は清々しい気持ちで、自分の孤独感の原因に帰れるランプを手にできたことを嬉しく思う。

 

 

 

「能力」というのは他者と比べるようなものでもなく

その能力はどの環境にあっているかということの視点で考えたほうが有意義である。

目立ちたい人は目立ったほうが俄然いいし

(例えば私のように裏方の仕事のほうが自分らしく充実感を感じるようなタイプのものは

表舞台になるような仕事に興味を持たないというみたいなものだ)

例えば、転職市場などは自分が自分で判断している自分の市場価値と実際の市場価値を見誤っていると

結果的に不利になる。

だからどんなレベルでも、自分を驕ることなく適正に判断できることは

幸せに生きていくためにはは欠かせない指針の一つのように感じる。

 

コースの赦しに限らず、この世レベルでも、常識的に

他責傾向の強い人は

状況のせいにする傾向が強くなるので

必然的に物事を習得していく際の障壁になる。

 

他責傾向が強い背景には、自分のミスや失敗をどうしてもプライドが邪魔して受け入れられないとか

あるのだが、逆にコースの神話を理解して、その首尾一貫している理論をきちんと理解して

受け入れて従っていくことで、原因があるところまで自分がいけるようになるので

訂正が起こっていく。

そのことで、逆に他責癖に光が当たっていく場合もあるが

逆に、コースを自分に向き合わないための手段としてしまうことも多い。

 

「健全さ」というのは外には存在してないから、いかに自分が心の中の「健全さ」に耳を傾けて生きていけるかが鍵となる。

健全さは失われることはないが、見落とされることは多いに起きている。

 

 

行動レベルの間違いも何を信じているからそうなっているのかも自分自分自身がわかるようになるし、

そうゆう間違いの原因は心の中にあって、訂正の仕方は、全員同じだとわかるところまで自分の方がいくので

そうしたら、この世全部に構えたり、わざわざ悲しみの原因を外に見て、わざと傷つくことも自分がしなくなっていくし、

適切に対処ができるようになってもいく。

 

他責傾向が強い人は

自分が向き合いきれないものや受け入れられない状況があると

それを他者や状況のせいにしてしまう習慣が定着してしまっている。

あまりにこの傾向が強くなっていくと、他者非難が強くなるため周囲と摩擦が多くなり、コミュケーション障害が出てくる。

自分で全部蹴散らしてしまっておいて、何故こうなのかの本当の理由が自分で見えてこないで悲しむ以外に方法が見えない状態となる。

ビジネスなどで使われる「自責」は問題に対して当事者意識を持って取り組むことを意味して使われるのだが

幸せに生きる基本は、こうなっているのは自分に責任があるという事実を知って受け入れること。

このことを自分を責る目的に使うのではなく、しっかり自分で受け止めて

自分が前進していけるか、だと感じる。

 

 

最後まで読んでくれてありがとう。

 

 

 

        

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