〜赦しの実践日記〜

 

 

 

 

 

 

頭のいい人は、頭がいいのに何故か、一生懸命勉強をする。

勉強をしないで自分をバカだと言っている人は、努力することより遊ぶことをメインで考え

自分はできないから・・・と言いながら努力することより理解力がないことに対する不満の方が何故か多い。

必然的に、この相違は、距離としてドンドン開くのは必然の結果で

人生で経験していくことの大変な違いとなって現れていくという点。

 

これについては色々な書物にも書かれているであるような話だとは思うが、

私自身が、対比の実例を見たことがあって実感したことでもある。

常に私たちは「岐路」にいる。

人生とはそうゆうことなのだなとつくづく学ぶ。

 

幸せになりたければ、もっと幸せであるための努力をしていけば更に幸せになると言うこと。

不幸には原因がある。

この世レベルの不幸にも原因があるし

色々レベルはあるが、とにかく原因がある。

 

「スピリチュアルは常識を抜きにして考えない」という

ACIM(正式邦訳=奇跡講座)理解における第一人者ケネスワプニック博士のアドバイスは

時間が経過するほどにその意味の深さを感じるようになったことの一つだ。

実践していくうちに「常識を抜きにしないで実践していく有益性」については、非常に感じるようになった。

自分の生活の中で、自分の日常を自分の心を癒すための目的に使っていくことをしていると

「目覚め」とは、どれだけ「この世界のことではないのか」、非常に明確に分かるようになって

逆に生活を充実させていく生き方ができるようになっている感が増していく感じだ。

 

外側に答えや幸せがあると思っているときは、外側をよくしていこうと、どうしても努力してしまい

結果的に外側の状況すら変わらないと言う惨敗に終わる。

 

目覚めるために自分の日常を使っていく話は、

あくまで心のレベルの話である。

これは腑に落とすことだ。

 

自分を変えないで幸せになろうとする情報もいっぱいあるが

それ系のスピ情報ばかりに依存して傾倒して生きていると、ある種の「偏り」となり

コミュニケーションがその種類に興味のあるサークル仲間だけになったり、

この世レベルで起きている問題適切に対処できなくなったり

(↑下手をすると、本当これが一番の弊害になるかも)

大きくバランスを欠き結果的に大きな痛みを経験することにもつながりかねないのだ。

この世レベルのことを、コースの実践で解決しようと考えてしまったりする状態は

余計に日常が混乱してしまって複雑になってしまうかもしれない。

(学びをスタートするとき、自己概念Bとしての自分が学ぶので、どうしても混乱を経験するとは思うが。)

 

「奇跡講座」の教える赦し習得のプロセスは

分離していたい心としての私たちには

実際は、相当抵抗がつきまとっていく苦労の伴う学びだなと個人的には思う。

 

しかし、抵抗の意味を踏まえ訂正を心から望み自分の抵抗を超えていくことに直撃に努力して超えていくと、

実際、体験が起こっていく。

またその体験は非常に魅力的で、結果的にやめられなくなるという相乗効果となる。

 

その体験は、本当にいいもので

激しい抵抗も超えていくことの方が、よっぽど大事だなってわかるようになっていく。

 

自分の日常で実践していけばいくほど

自分の途方もない抵抗を超えていくだけの意味や価値を

感じとるようになって、なおさら「赦すこと」が自分の日課になっていく。

 

些細なことでも、どんな風に豹変していくのかわからないので、「赦さない」でいるより

とっとと「赦したい」と思うようにもなるし

何としても「赦す」と思うようになる。

 

 

また逆説かもしれないが

自分の抵抗を超えていけばいくほど、抵抗の意味を知る。

それで越えれば超えるほど、大変さがわかり、

こんな・・・「心を癒すために」自分の日常を「赦しの教室」としていくなんて実践

絶対興味を持つ人は、確かに殆んどいないということにも気づく。

何故なら、尋常じゃない抵抗だから、くたびれてしまってやる気になる人って少ないように感じるからだ。

私のようにニーズがあるなら別だが、

こんな「赦し」など覚えて実践していくよりも

この世的な幸せを享受していくためのスキルや生き方の方が、サークル活動みたいでみんなと湧いて

向き合わないので楽しいだけだったりするし

愛に浸ることや瞑想して気持ちのいい時間を過ごすことなどもそうだし

逆にこの世的な刺激もいっぱいあるから、そっちを楽しめる間は、

思い切り楽しむ方がコースを学ぶよりもベストだなって思う。

 

私にとっては、

「やってみたいこと」を「やってみること」も「やってみて」、すごく楽しい経験だけど

確かに、本当の幸せには至らないのでコースに向かった。

でも、行きたいところに行ったり、やりたいことをやっていくというのは、

それはそれで楽しいと思う。

 

 

個人的には、やっぱりコースの「赦し」の勉強と実践は非常に有意義な時間の過ごし方だと感じていて好きである。

 

 

コースは、

とにかく理解していくまでに、かなり時間を費やしていかないと理解ができないし

惹かれて興味を持っても、その価値に気づくまでも容易じゃないし、

おぼろげにでも価値を感じて、実践を覚えてやりたいと思う人じゃないと正直続けられない。

小学校一年生くらいの勉強なら、その時解けなくても大人になってみると誰でもわかると思うけど

専門的な分野になってくると、それって好きじゃないと、理解したいって思えないものだし

コースの「赦し」もそんな感じじゃないかなと思う。

 

しかし、苦労のかいは非常にあり、障壁が取り除かれていくプロセス体験は言葉に言い尽くせない。

この種の「幸せ」は

自分がこの世レベルでやりたいことに障害を感じなくなる回数が増えたり、生活が向上していく体験より、

非常に超越した神秘的で言葉に言い表せない体験で豊かな経験である。

 

現実面で不具合だなって感じていたことが消滅したり 摩擦が起きる人間関係が消えていったり

自分を粗末に扱うようなタイプの人とお付き合いをしないようになったり

(説明が難しいが、意地悪をしてくるその人が本質的に非人道的な人ということでは全くない。)

こうゆうレベルのことは単に常識の中で判断するような普通の話であることが多く

わざわざスピリチュアル(ましてや、コースの理論を持ち込むなど論外)などの視点を取り入れて

その外的状況を考えるような種類のものでもないことに気づいた時は

自分でいささか笑えたものだった。

 

だから尚更、自分の日常を全部コースの「理論」に繋げて考えていると本末転倒になる。

それよりもコースの「赦し」を自分の日常で実際に実践して「体験していくこと」の方が

何千倍も豊かな体験だ。

 

 

最後まで読んでくれてありがとう。

 

 

 

        

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