~くりみか日記~

 

アクセスありがとうございます。

 

 

色々、「悩み」というもの、不満に思うことについて

ずっと耳を傾けて聞いていて発見するのは

本当は不本意なのに、何故それを続けているのか?

ということを自分に問うて 何故、気づこうとしないのか ということ。

私たちは 見えないのだ。その思考が。

完全に同一化してしまって乗り物に乗っていることすら 気づかない。

だから、日々心を訓練をしていくことがすごく大事で心を訓練していけば

その苦しみから解放されていくのだ。

 

例えば

本心は、家にお金を入れて欲しいとする。

しかし、相手が入れない男性だとする。

自分は、ハウス・ハズバンドを求めているわけではないわけだから

(専業主夫を求めているなら一致しているが、この場合は求めていない。)

結果、どのような考えに至ったか

自分にパートナーは必要ないのかなって思い出す、という結果に至っていった、

この一連のプロセスが 物語っているのは

自分の本心に蓋をして諦めていることに自分自身で 気づいていないという点。

私たちって「痛み」が強烈で 心の中を恐ろしくて見たくないので

事柄の中に痛みを見て、心に戻りたくないので

事柄に見て妥協して自分と折り合いつけているみたいなことをしていることがあり

しかも、この習慣が定着化している。

起きている出来事を見ていく視点の解決方法とは

このような展開になっていく場合がある。

自分が一緒に歩みたい男性がそのような男性ではないなら

当たり前だが、嫌だなって思うのは普通の反応。
(外に幸せはないが、だからって 誰でもいいということではない。)

苦楽を共にし 生計をともにするパートナーは欲しい思い、

でも現実は、お金を入れる男性ではない。

外界だけを見ていると、辿っていく解決プロセスは 結果的に、

「自分にはパートナーは必要ない」と思う、 という解決方法や対処方法で

相矛盾する自分の感情に対応しようと試みる。

本心は、自分にパートナーシップは必要がないと思っているわけではなく、

そのような男性ばかりに会うから、 それは嫌だから、だから「 必要がない」と、思うことで

解決しようと心理プロセスを辿っていく。

ここで重要なのは、 見直すべきは、 自分の信じていること、信念の方だということ点。

これは一度のやり取りで 自分で「ハッ」っと気づいて自覚できて

癒えてしまって理解することもあるし

自分を閉じ込めている思考のブロックが いくつも絡み合っていることもあるが、

メゲズに手放す方に努力を費やしていけば いづれ解放されていける。

現実が問題ではないのだ。

この世レベルでいうならば、 そのような生活力の器量がない男性を

選んでいる自分の側の方を よく見て省みないことには始まらないということはあるが、

一言で、この選択に関して自業自得という言葉で

とても片付けられるような問題でもないし

言えるようなものでもなく自分がそれを選んでいることさえ気づけないほど

自分を罪人だと思い込んでいる心は自分に罰を与えることが 目的となってしまう。

だから、この世界で対人関係の中で浮上してくる不快感を

攻撃や我慢で対処するのではなく心を癒していくために

不快感を取り扱っていくって 生き方は価値非常高いということは察しがつく。

 

そもそも「自分がこうしたい」と思う

そのものの動機をまず自分でよく吟味することが 強烈に大事だが
(何故なら、真の自分の願望を阻害する願望など 満たしてもしょうがないからだ。
そうゆう願望は、満たさないで克服していくに尽きるからだ。)

お金を入れない男性と出会うから不幸なのでもなく

自分の信じている信念の方を見ることの方が相当重要なのだ。

パートナーシップを諦めて離婚して生活を営んでも

想念は想念している心から離れることは一切ない。

死んでも必ず地縛霊のようについてくるのだ。

だから現実を変えるとか選ばないとかそうゆう次元じゃ解決しないのだ。

(だからと言って、現実面を不誠実に生きていいとか反社会的に生きるということではない)

例えば、いじめにあっていたとする。

被害者をやり続けても自分の間違った自己概念は訂正されない。

相手を恨んでも全く解決しない。

だからこそ、この世レベルでは、その事柄に毅然と対処するとともに、

心のレベルでの思考の逆転としての赦しの機会としていくのは

非常に価値が高く有益なのだ。

自分の居心地悪い不具合の内的状態の原因を外の状況に見ていく悪癖努力で克服されていくべき習慣で

罪悪感が「嘘」だと気づいていくためにも本当に必須なのトレーニングである。

習慣は行動で作られていくが

自分を不幸にしている 悪い習慣も 自分が止めようと思って 行動しないと、 それってずっと変わらない。

自分を貶めている悪い習慣でも本当に。 自分が変わろうと思って、本気で努力しないと 克服できないのだ。

行動は、どんなものでも 自分の思いを強化していく 手段のようなもの。

不幸なら不幸な理由がある。 現実が悪いわけではないのだ。

ここは自分で省みていくと見えていく。 省みない限り、ずっと同じ場所なのだ。

 

 

自分では、完全に不可能だと思っていても 行動を起こしていくと可能になっていくという

経験を自分にさせていくことは自信にも繋がり有効だ。

頭で自分では不可能だと思っていても努力していくと可能になるんだ!!ということを教えてくれた一つに

「開脚」がある。爆

ある日忽然とできるようになった時 やっぱり日々の努力なんだって思った。笑

この歳で、この身体の固さで・・・どう考えても夢と思っていても

屁理屈はいいから、とにかく実践してみると、経験していく。

 

要は、肉体次元だろうと精神的なことだろうと、この世の願望実現だろうと

真の自分の願望実現(霊的存在の自己に目覚める。神の中に目覚める真の自己実現)だろうと

意欲と日々の自分の絶え間ない努力とトレーニングがそれを可能にしてくれるということなのだ。

 

信念なのだ。

だから、どんなレベルの自己実現であっても

できる状態、できている状態に触れる。 可能にしている人や教えに触れる。

とにかく何でもそうだが、どんな分野でも 確実に生きている人がいるので

それに触れると本当にいい。確実だ。

(海賊や海賊といたら盗賊や海賊の考えになるし、全うな人と接していれば全うになる。)

出来ている人と体感の共振するということは何を意味するかというと

当たり前だが、どうゆう体感かわかるし、どうゆう認識かがわかる。

(ここ重要)

そして実践していくのだ。必ず経験していく。

そして、繰り返すことによって不動のものになっていく。

 

見た目や今の現状、年齢条件なんでもいが

現状に甘んじたりして、やはり諦めないことがポイント。

諦めさえしなければ道は、とにかくどんなレベルであっても必ず開ける。

一歩一歩地道に階段を登っていくのだ。

諦めないで ずっとやり続けていくと

気づけば、自分のためにならない 悪癖も克服できていたり、

生き方が見えるようになったりする。

「現実は幻想」と一言で表現するのは、余りに勿体無く、

この意味をわかっていくプロセスは面白い。

 

自分の生みの親が神聖だから自分も神聖で自由だって

気づいていくプロセスってすごく素敵で神々しくて楽しい。

 

裁きの習慣から解放されてていけるって、本当に最高だ。

(要は罪悪の自動投影から卒業していけるってことだから楽になっていくのは当然ですね。)

 

「なりたい自分になる」という願望は、自分の真の願望を邪魔する願望で

このような願望達成に努力を投じるよりも

自分に出されてくる階段を一歩一歩登っていく方が

結果的に心が癒されていくだけでなく、

現実面でも益々健全に幸せに生きる方向に力強く導かれる。

だから、思うことは、自分の真の願望に妥協したり諦めたりしないことだと思う。

幸せは際限なくなっていけるのだから (分離を深めるのも際限なくできるのと同じで)

自分は出来ているとか、目覚めているとか、親切でいい人間だと自負して思ってしまうよりも

(もっと、もっと自分を全うにできる楽しい道があるのだから)

内なる教師に謙虚に従って導いてもらって前進していけば、益々幸せ。

 

この世レベルの何かの目標って、心を癒す観点から見ていくと

それが重要でもなんでもなくて

単に神を思い出すための心を癒すプロセスの手段にしかすぎない。

神しか自分の本当の必要を完全に満たせる存在がいないからです。

だから障壁を取り除く努力には価値があるわけです。

 

仮にその手にしたかに見えるこの世レベルの結果というのは、

この世のものとは、やはり不完全であり、意味がないこと、

そして、自分に完全な満足を与えてくれるものではないということを

益々教えてくれる教材だと理解するし、そう思うようになります。(現にそうだから)

 

そもそも、罪の国の変化というのは、新鮮が腐る変化という劣化という変化。

赦して経験していく奇跡って言葉にできない癒しの経験で

正しい心に繋がったとき、見えることも本当に全うで、愛に満ちているし

常に新鮮の繰り返しのような枯れることのない泉の中にいるような経験で

この飽きることのない鮮度そのもの。

罪の世界で経験する変化って幸福だったものが絶望に変わっていく変化で

全く魅力がない。恐ろしい変化。

だから、永続的な幸福の保障をこの世に求めるべきではないということ。

この世界は信を置くべき対象のところではないということ。

(だから、人を傷つけてもいいとかそうゆう発想は違います。)

 

自分を怖がらせていた幻想は

信じなくなると、もはや元々「無」のものは「無」に戻っていく。

 

 

現実を結晶化して鑑賞して楽しむよりも、そのプロセスの方に価値があり

障壁が取り除かれて自由を取り戻せる方が俄然、価値があり、

形に継続性はなく

もはや、この世のものは、幸せを保証してくれるものではないことを

教えてくれるものだと認識していく。

(赦せば赦すほど、騙されなくなっていくし、神や自分の本性が怖くなくなっていくので
この世に信を置かなくても実体が消えないことがわかって肉体以外の感覚に慣れるようになっていく)

だから、そうゆう意味では、障壁を取り除くための手段としての目標達成はある意味実用的。

 

住んでいる家や人生や今お付き合いしている人間関係や

現れてくる人間関係が自分の本当の自分の状態を証するものではないと言うこと。

あくまで、自分が信じているものを見ている。

だから、この世界を変えて歪んだ自己概念を変えていく発想自体がそもそも根本的に間違いで

この世界は変えるものではなく自分に対する心を変えていく方が賢明なわけだ。

変えようとするよりもむしろ、心を癒すことに使った方が もっと、あっと驚く楽しい広がる経験をする。

 

 

流れ出る思いやりそのものを経験していくって本当に素晴らしい経験だと思いませんか?

 

私が教わってきた生き方や不快感への対処の仕方って、

本当に下品で、高圧的で暴力的なものだったし克服していくこと大変なことこの上なかった。

しかし、自分を不幸にしていく習慣は断固としてやめていかない限り

幸せにもなれない。

外的な中に原因を見ていく生き方から抜けていくことは、本当に大変だった。

でも努力で絶対に生き方は変えられる。シフトする。

外に自分の苦しみを見ていく見て生き方は、とにかく物事が複雑になっていくし解決しない。

だからって、「外に見ていく生き方」をやめていくだけでも大変な努力がいる。

でも、この悪癖を克服していくことでメリットは本当に大きいのだ。

概念としての神ではなく生ける神を信仰する資格があることを自覚できるようになる。

罪悪は、本当に投影しなくても幸せになれることを真に思い出せる。

神は愛で自由で親切で唯一の親であり保護者であり神以外自分を必要という苦しみから

解放できる救い主はないことを思い出せる。沢山の信じてきた幻想が嘘だったことをわかって

益々、罪悪感を直していく勇気が培っていける。

だから、私は努力していきたいと思うし、実践すればするほど、

どれだけ外に原因を見ていく生き方がナンセンスな生き方で

自分を神から遠ざけて

罪悪感を実在のことく感じさせ、だからこそ、罪悪感から離れ、

向き合えないような方向に

方向づけてしまう努力だったか思い知っていく。

心の中に戻っていくことを習慣にしていく努力は自分を天国に連れ帰る。

神を思い出すことは、本当に価値がある。

攻撃は自分を酷く醜い存在だということをもっと自分に証させる。

益々、自分は攻撃されるという信念体系を強固にして深めていくことになる。

この罪悪を投影してもいいことは何もない。

だから、不快感に負けない心の強さを自分で養い投影せず、踏みとどまって自分の決断に気づけるようになれるように

努力していくことに一生懸命になることは価値があり、その恩恵はでかい。

 

最後まで通読ありがとうございました。今のあなたの何かのお役に立ったり響き合うものがあったら幸いです。

 

 

 

        

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