?イベント日記?

 

「信楽駅」へ

もう20年以上前に「滋賀」に旅をしたことがって

その時もう一度行って見たいと思った場所があり、それを探していたら

滋賀では年に一度「信楽駅」付近で陶器市が開催されるようで、ちょっと立ち寄りました。

 

 

好みの陶器があって楽しい時間を過ごしました。

時間を何に使うか、大事よね。

 

世界の中に自分の苦しみがあるのでもなく、その原因があるのでもない!!ということが

わかっていく旅は豊かな旅です。

世界にあると思っている状態だと、この世界を攻撃する以外の手段しかなくなりますからね。

それか我慢して、恨みを募らせて爆発させるか、ためてためて、光を完全に遮断し続ける方に徹して

悪魔になる方向性に絨毯を広げ続けていくかですものね。

 

自分の信じていることを恐れるのではなく、そのことを直視できる強さをもてるようになれる。???

心の中から戦いが消えていくって凄くすご??く豊かです。

これは、この世界で成功して味わえる豊かさとは全く違う質の豊かさかもしれません。

(自分に経済的成功の豊かさを拒む気持ちは微塵も持ち合わせてませんけどね。むしろ喜んで享受します。爆)

 

自分を苦しめるような価値観や原則から外れている考え方を見つけて手放していけるって豊かです。

生き方がどんどん実に実はシンプルだとわかるようになるので

益々幸せになっていきますね。??

 

コースの「赦し」をワプニック解説から学ぶようになってからは、もっともっとこの世的な生き方についても

すごく本質的な深いところから「地に足つけて生きていくこと」の意味を教えてもらった感じで

逆に、スピリチュアル活動のようなものからは気づけば遠退き、(これはこれで楽しかったのですけどね)

自分の日常で実践して実際に個人的な日常の中で幸せを享受していくようになり

益々平和を感じる機会が多くなり、穏やかな心境でいることが増え、

生活も外的刺激を求めることから解放され(罪を外に見なくなって穏やかになって初めて、あれって刺激だったんだな?って)

生きやすくなっていたり・・・心の中から戦いが消えていく豊かさを味わっています。

 

私の心の苦しみの原因はこの世界にはなかったことを思い出せ、自分の日常を罪悪の夢から覚めていくために使えるように

させてもらえた「奇跡講座」に心から感謝すると共に、益々実践して体験していこうと思っています。

本当に光が延長されていく経験は言葉で語れないほどの豊かさですね。本当に!!??

 

宇宙には言葉がなく概念もなく

この世界では経験できない豊かさです。もっともっとこの世レベルで対人関係の中や外的状況の中で

赦しを実践して心の中の戦いを終わらせ、心を癒し、真の自己の体験をしていきたい。そう思います。

 

 

 

「奇跡講座」の理論をどれだけ正確に知っていても、「天国には帰還できない」のと同じで

「この世界のレベルで幸せに生きる」ということから自体からも学ぶことも非常に多く

実践していくと体験していくので、そこには、そこの学びがあり楽しいなって思います。

現生利益系でも、目標達成型や外観を変えて外観をよくしていくものではないタイプの実践は

自分の思い込んでいる思い込みが固く変わらないものではなく

思い込みでしかなかったとわかっていく経験をしていくので、その経験は、豊かだなと思いますし

心が解き放たれ、世界は存在していないということを体験を通して実感してくので

すごく自由を感じる体験です。

 

自分が「これってあるよね!!」って思っているからこそ、あるわけですから、それを超えていく時は、

本当に固く変わらないもののように見えますし

幻想だと思えないほどですが、実際に行動してプロセスを通過したとき、

「やっぱり存在していないんだ」

「こんな体験をしていくんだ!!」って体験していくので、その経験の度に、理解も深まり成長するし感動します。

 

自分を苦しめている価値観や考え方を手放していけるようになることの利点は原則がわかるようになる点。

基本的に何でも基本の原則があることがわかっていくと、それだけで生きやすくなっていくのですが

原則を無視して生きない方が得策だということもわかるようになります。

例えば、攻撃したら罪悪感の経験をしていくことが逃れることはできないという、この不動の原則

無視して生きたところで「心のメカニズム」がそのようになっているわけですから

攻撃したら罪悪感の経験は回避不可能な事実を受け入れて生きた方が賢明なわけです。

これは、逆を言えば、幸せになりたいと思っていたところで、信じているものを超えてはいけないということ。

だから、自分が何を信じているのか自覚しないとそれを超えていくことができないということ。

例えば、この世界があると思っている次元でどれだけ世界はないと信じていても、

高層ビルから飛び降りたら肉体が破壊されてしまうように、世界はないのか!!と思っても

深いところで信じていればその法則の原則を超えてはいかないということ。

だからこそ、日々、着実に実践してひっくり返していくことが大切になっていくわけです。

でも、地道にやっていけば、結果を必ず経験していくので、頑張ればいいということなわけです。

 

 

 

原則を受け入れて、それにそって生きれるようになっていけるようになれればなれるほど人生はより自由だということ。

幸せになれる道を歩めるようになれればなれるほど霧が晴れて、幸せになっていくので楽しいですね。

 

でもスピリチュアルと言っても自己実現がドッキングしているスピリチュアルを商材としたビジネスの現場を目にする機会も多くあるので

スピリチュアルというものの中にも、逆に神との分離を強化して個別性を維持していく力動は

働いているので、そうゆう点は、しっかり自分を注視して置く必要はありますね。

 

「赦し」をコツコツ自分の日常でしていくと

自分が信じている事を否定しないことが、どうゆうことなのか理解ができるようになるので

自分の抱いていることや感じていることを否定しないで、そのまま裁きなしで受け入れられるようになるので

一段と赦しの実践は楽になります。

 

神との分離を信じるがゆえに生じている苦しみだということが

わかるところまで自分がいくと、「本当にそうだ」と、はっきり自分でわかるので

「赦し」も、ちゃんとできるようになっていくので、その結果「癒し」を経験していくので

そのプロセスは、ほんと?????に幸せそのもの。

 

自分の抵抗を超えていくのは、確かに、本当に確かに、修練ですが、

目の前の現実は自分の信じていることの「反映」であることがわかっていくので

抵抗があってもそれに争わず、じっくり取り組みができます。

(この反映という意味も外側に何かあると思っていたい視点からは自分のネガティブな考えがこんな悲惨な現実を作っているのかって誤った理解を必ずします。)

 

自分で分離という想念を抱いた。そうゆう想念を抱いた、その自分の心のあり方が非常に罪深いと思うことにした。

その結果、罪悪が生じる。その罪悪に自分で耐えられず、(自分が利己的な分離の思いを抱いて、

自分で、その分離の想念に罪深いと意味づけをして、自分で罪悪を生じさせてしまっているのに)

巨大な罪悪なため、罪悪(苦痛)を神のせいにしている心の態度は、

この世界のレベルで見ていったときに、自分の苦痛を他者や状況のせいにしてしまう態度になってしまうことになっている!!

 

自分は自分以外の何かで苦しんでいる!!という、この定着した悪癖である自分の態度自体を

更生させられるように成長するだけでも弛まない努力です。

 

こればかり考えて生きているというほど、莫大な時間をこのことに費やしやっていくことで

やっと、裁きなく、諸悪の根源は自分であり自分に原因がある事を認めることができるようになれ、

自分が信じてやっている事を恐れる事なく直視して無益だったと気づいて手放していけるようになって行けるような地道な道のりと訓練。

 

自分があまりに恐ろしい事を信じることにしたため、その事実を直視できないわけです。

そしてまた一体性からの分離を信じて個別性を経験していたいため直視しないんです。

こんな利己的なことをしている私たちなのですが、その自分は神に罰せられるに違いないないと本当に確信しているのです。

だから、この世レベルでどうにか幸せになろうとしたり、(自分が罪悪を隠蔽したために投影することになり、出現した世界で

スクリーンでしかないこの世界の中で幸せになろうとしているのです。滑稽すぎる・・・。)

自分の悲惨な心の状態を見ないで済むように色々な試みを私たちは決断以外の場所に求めていくわけです。

 

 

私のように、自分を微細も顧みることなく状況が自分の苦しみの原因だと疑うこともなくそのように見なし続け、

自分が望む体験や好きな体験ができるようになることが自由や癒しや幸せだと本気で思えていた者にとって

コースの「赦し」を自分の日常で実践して体験していく体験は目からウロコが落ちるばかりでした。

自分が心の底から攻撃をしながら、実は自分は善人だと思い込むことをやめないことや、自分は正しいと本気で思っていたことなど

 

 

自分が善人じゃないことを裁きなく本当に知っていけた恩恵は、ほんと??????に深かった。

自分の「精神のダークサイド」を自覚して理解できるようになって認めて癒していく中に

こんなに幸せになる鍵があるとは想像の外側すぎでした。

心の中から戦いが消えていく体験って圧巻です。

調和的、平和的な存在の仕方を心から望むように変容し、そっちを好むようになっていくのです。

(どれだけ、幸せを望みながら実は、愛以外を選んでいて、攻撃好きだったんだって裁きなしに思います。)

 

ある分野では有名で名書の1つと言われる書籍があるのですが、その書籍の中に終身刑務所送りになった殺人犯の人が

自分をどのように認識しているのかということの例題が沢山の列挙されているものがあり

その書籍の中で、書かれていたことは

この世的に殺人をしたとしても、自分の事を悪人だと思っているのかという問いに対して

自分の攻撃には正当な理由があり、自分は不当に扱われていると思っているという事でした。

この列挙されている事例の数々からも

殺人をしたのなら、その攻撃性については自分で一目瞭然で気付づくことができると思われるようなケースでさえ

自分は攻撃していたとしても、完全に被害者的見地から自分を感じているということなのだということがわかります。

 

そのくらい、私たちは、自分の極悪非道な残忍さや自己中心的な部分や攻撃性について

どうしても裁いてしまい、自分が違うと認めたがらない傾向性が非常に尋常じゃないほど強いということなわけです。

 

例えば、「奇跡講座」の中で「自我」というのがどうゆう意味なのかについてワプニック先生が解説してくれている文脈が

JACIMのホームページの「奇跡講座」の学び方のページに記載されていますが、「自我について」

その文脈を一部抜粋しますが、「両者はまるで人間であるかのように描写されています。

しかし、私たちはただ象徴について語っているだけです。このような象徴や神話を使う目的というのは、

私たちの中にあって私たち全員が共有している共通の心理プロセスに、私たちが触れることができるように助けることです。

このプロセスを理解し、経験することによって、私たちはそれに対処することができるようになり、

それを消してもらうために、聖霊の助けを、本当に助けになる形で求めることができるようになるのです。」

と書かれていますが、本当に大切で、共通の心理プロセスに自分が触れられるようになると理解します。

ワプニック先生が解説しているように、「奇跡講座」は共通の心理プロセスに触れられるように助けている書籍です。

解説の通り、このプロセスを理解して、経験することで、まさに、対処ができるようになっていくのです。

 

 

私たちは自分で「心から幸せでありたい」と自分で望まない限り

「攻撃」の「無益さ」や「有害さ」は実感していかないでしょうし、手放さないということな訳です。

他者を攻撃すれば、罪悪感の経験は逃れられない経験ですし、罪悪は自分に処罰を要求しますから

大変、悲惨な体験になっていくわけですが 、

(心のメカニズムが理解できていない時は、一見み、攻撃すると一瞬、すっとする経験をするので外に罪を見て攻撃してしまうことをやってしまうものですが)

実際、どれだけの大惨事が自分に起きているのかの実態を本当に自分で理解できるまで

「攻撃」して苦しんでいても、それに気づこうとせず、他に苦しみの原因を見てしまい、私たちは、攻撃を正当化する領域からは、

なんだかんだ言いながらも一歩も出ずに、この領域に踏みとどまっているわけです。

でも、「奇跡講座」は、「攻撃」手放したいと思えるところまで導いてくれるので、

「攻撃」を手放せるところまでいくことができるので、実に幸せになっていくのです。

 

最後まで読んでくれてありがとう。

 

 

 

 

 

        

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