~実践日記~

 

「非暴力・赦しの魅力に迫る」

 

「奇跡講座」の説明している、心の中でおこなっていくという「赦し」は非常に魅力的な「益」をもたらす。

破壊的な関わり合いの自分映画は、愛を教師として通過していく事を学んでいくと非常に有益だ。

確かに簡単ではないのだが、

(むしろ創造主との分離を信じている部分を癒すので、とんでもなく難しいのではあるだが・・・)

その勝利の経験は癒しを必要としている自分を非常に圧巻する。

「奇跡講座」の「赦し」の練習をしていくと、理解していくようになっていくのは

この世界の中で自分が行う「裁き」「攻撃」は、罪悪を温存するための思考体系の行動特特性だったと

理解していく機会となるだけでなく

神から与えられている豊かさについて垣間見、それは人知を超えた壮大なスケールで

この世レベルで人の人生まで(現実がよくなるというようなレベルの話ではなく)

好転(真っ当になっていく)していく様は、本当に圧巻である。

自分の心の決断まで遡り「取り消しという赦し」を練習していく事で

自分が心だということを思い出す深さが増すことに繋がり

自分が心だということを思い出す深さが増すことにたびに、

この世レベルで人を恨む行為は、神への憎悪や自分への憎悪の転化でしかないことが明らかになっていく。

それだけではなく、

この種の真っ当なスピリチュアルを勉強するようになって時間と共に実感するようになったことは

(もっと言えば驚愕した)

スピリチュアルというのは、巨大な市場になっている点。

心を癒すことができるスピリチュアルの概念は、商売の商品となっているということも多いこと。

これについては自分で見極めて分別できるようになっていかないと、癒されるどころか

むしろ、その逆で運営側が優位になっていくためや経済的自由になっていくための

ビジネスのための仕組みとしていることも多いということも、少なくないということ。

スピリチュアル探求をする場合は、その辺にも留意された方がいい点だ。

私たち、それぞれ、色々なレベルで悩みがある、その悩みを解決したくて、

色々努力したり解決策を求めて色々なジャンルの門を叩くわけだが

気づけば、その教えや考えの消費者や伝道するための労働力として歯車になっているにすぎないことも多い。

この相違点はしっかり、そうなるものなのか、そうならないのかの見極めを自分でできるように勉強した方がいい。

 

話は、実践に戻すとして、心を変える努力を自分の日常で細々でも続けていくと

大きな改善の大波となって、赦しの益とはどんなものか結果が教しえてくれる。

ワプニック解説でコースの教えている「赦し」を練習していくと、

心のこととこの世レベルのことについての分別力も養えるため

このため、スピリチュアル等で起こしがちなレベルの混同(コースでいうところ)による

混乱や葛藤から解放一つの恩恵の特徴がある。

偏ったスピ実践は、自由という概念の定義が、普通に生活から外れたり、

普通に生活することを「制限」と知覚するような考え方ということもある。
(単に投影の場所を変えたというだけ)

常識を無視したような学び方に逸脱することを助太刀する教えも巷に多い。

しかし、ワプニック解説で「奇跡講座」を学んでいくと、世レベルの問題に対しては、適切に対応していく方向に向かう

これについては、概念で理解するよりも、体験で経験していく方が、説得力があり

その相違は、一種の笑いが起こるほど違う。

心の幸せというものは、この世に関与していにということが学べるようになっているのも、

コースの仕組みの面白いところかもしれない。

不快感への解決の仕方が、状況を攻撃して解決しようとする公式に

なれきっている心を訓練するのは、大変だが

それでも、トレーニングすることで、やってよかったって恩恵を経験する。

人生が健全さに導かれるだけでなく、自分や人を傷つけない方向で生きることとは

どのようなものなのかを知れるようになっていく。

自分を神から分離したもの独立して存在できていると自覚している部分は闇の部分であり

この部分を意識化させられることは、取り消しが可能になり、非常に幸せに生きれるようになっていく。

 

戦いで相手を立ち上がれないほど打ちのめしても

恨みをかうか、相手の屈辱感を強め、どっちみち、いいことはない。

戦いで平和が勝ち取られることは絶対にないことは歴史が証明している点であり

戦いで得られる勝利は、相手の敗北であり

屈辱感の増幅でしかない。

 

大体が、この世レベルでの間違いを辛辣に指摘されたことというのは

多くの場合は、感情的に納得できなくて

受け入れられず、相手を恨んでしまうのが私たち凡人だろう。

あるヨガナンダの師であるスリユクテスワという賢者の言葉で、

「他人の穏やかな忠告にさえ不快感や反感を生ずる心の弱さは、

ちょうど、どんなにそっと扱われても痛がる傷口のようだ」とあるが

まさにその通りで、だからこそ、相手の了承を得てすら「指摘」というのは適切であっても

受け入れられないことの方が多いくらいなので、

そのくらい難しい(自分に向き合うとは簡単ではない)だからこそ、

自分の心を変えることとはハードルが高い学びだが、賢明なことで

結果的に幸せになる。

人を変えるよりも自分を変え、正しく生きるよりも楽しく生きた方が人生はより楽しい。

根元が同じだと思い出せば出すほど、状況の敵対という幻想を本気にせず

心は一つだと思い出していくことに努力した方が、賢明だ。

特に、自分が受け入れられないような経験をしている描写など通過することは誰でも経験することなのに

私たちは、愚痴る。愚痴る代わりに、内なる教師と通過する術を覚えれば

気づけば、戦いを必要としなくなっていくだろうことは大いに予想がつく。

 

言葉の戦いから武器を使った戦い色々あるが

殺戮という勝利は相手の葬儀という敗北の上に成り立つ勝利であり

何が何に勝ったというのだろうか・・・・

加害と被害を超えていくことに、より多くの益がそこにはあって

心の底から赦しを自分に定着させる作業は容易ではないのだが

それでも、自分が平和に生きられるになるだけでなく、その変容は非常に豊かな経験だなと思う。

この世界で目標を立てて実現した時も大いに喜ばしい体験ではあるが

心の中で行っていく「赦し」を練習していく中で得られる成果結果は非常にいいものである。

争っていた他者と仲良くなったり(反映として)自分が肉体を神殿にしていたことにも

気づくようになっていったり、平和的な解決の仕方ができるようになって(発想が浮かぶ点が痛快で楽しい)生きるようになったり

平和になればなるほど、生きることは楽しく充実していく。

「赦し」を習得していくことは非常に有益である面が多い。懸念としては、大変だということだろうか。

他者に優しくなっていくし、相手をねじ伏せてゴリ押しで問題を解決しようと思わなくなっていくし

他者を悪く思っていたら、「自分が、どのようなレベルでどのようにおかしいのか」ということにも

判断的な気づきではなく、率直に気づいて自分を改めていける。

この点も「コース」のいう「赦し」を学ぶことで得られる恩恵かもしれない。

地獄から抜け出していくにも根気がいることだが、一歩一歩の赦しの階段が

愛を自覚できなくしている障壁を取り除き、自分に与えられている天国を思い出していく。

 

 

 

最後まで通読ありがとうございました。今のあなたの何かのお役に立ったり響き合うものがあったら幸いです。

 

 

 

        

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