~実践日記~

 

 

声をきくといっても自分を本当の幸せの道に誘っていく声なのか

それとも、不満を抱えた自分という先導者の解釈でその情報を聞くのか・・・

それによって随分ゴールが異なっていく。

 

どんなことでも正当に努力したものって自分を幸せにする。もっともっと真っ当に生きれるように自分を成長させてくれる。

それ以外ってぜ~~~~んぶ結局は、痛みに繋がっていく。

コースの解説している心の中で起こっていくという「赦し」って、本当にいいなと実感する。

何がいいかといえば、罪悪感の雲が消えていくので内側に神を感じるようになっていくのだ。

光が強まっていくとどうなるかというのと、選択の間違いに気づく頻度が高くなったり

暗黒面の声が・・・

裁く声、自分を裁く声・・・浮上してくる自分への憎しみ、裁きが力を無くしていく点もすごい。

だからこそ、善と悪の分別がついていく・・・これは切り離すという意味ではなく、

善を悪から切り離すということではなく、毒・悪は自分の心の中にあって、罪悪は自分の信じる力の誤用で作り出している。

だから、外に出さずに、心の中で自己選択だと気づける場所まで自分が戻っていく。

これができるくらい自分で自分のしていることに目覚めていくと、戻ってくので

そこでなら、終わらせていける。

 

世間一般に平凡言われる人生ってあるけど、どんな人も平凡って無いように思う

どんな人生歩んでいてもみんなピンチって経験するし大変なことがある。

それは、社長をやっていても、一般職と言われるようなサラリーマンしていても同じで

取り扱っているものは、みんな一緒。

 

たまに思い出される小さい時の人生の1つのページ「引越し」

引っ越しをして、親しい友達たちとお別れのシーン。

(あの時、みんな温かい人たちばっかりで、クラス全員から両手いっぱいのプレゼントをもらった。嬉しかった。)

引っ越し=物理的に仲良しが誰もいない状態からスタートするわけなのだが、

衣服の買い物に出かけた時、どんなものが欲しいか聞かれ、

たまたま、自分でこれ、いい感じって思った服が流行りの服だったのだが・・・・

あくる日、数名の人が私に自然誘発的に集まってくる現象が起きた。

その子達が口を揃えて言う話によると、自慢しないで生きている私の姿勢に好感を持ったということだった。

???

たまたま、私が買ってもらった、その服は、流行りの衣服で、その服を来ているのに、自慢げじゃないという私の態度が

私にとって心温まるような親交を深めたいなって思えるような、または想い合えるような交友的な友人を連れて来たのだ。

新しい土地で心通う友人ができたことは私にとってはとっても幸せなことだった。

(余談だが、他者に嫌われたら嫌なもの。という普通のことも、どうでもいいと思えて言えてしまうほど

感じたく無いものを抑圧して隠蔽して自虐的な人もいたりするのだが、このこともどうでもいいと思うこと自体が

おかしいと気づけるようになる位、癒さないと、おかしいのだという普通の感覚が戻ってこない場合もある。)

 

友達になった、その子たちは、優しい子たちで、友達をしていて随分気があい一緒にいて楽しい子達で随分遊んだ。

それぞれ自分の人生を歩みだして 大人になって街であっても、距離感なく友好的に会話が成立する人たちだった。

そんな親切な人たちに恵まれた。という、そのシーンは私に次のことを思い出させてくれた。

「謙虚さ」

謙虚さは、質のいい友人を自分に運んできていたことに改めて、本当だなと確信に変わった。

 

私は奇跡講座のテキストの中の言葉で好きなフレーズがあるのだが、416ページで

「聖なる瞬間に必要な条件として清くない考えを1つももっていないことがあなたに要求されているのではない。

しかし、そうした考えを1つももち続けたくないと思うことだけは要求されている。」

 

自分が持っていることがわかって、なおかつ、それが自分をどう毒しているのかわかって

持っていたくないと思うように成長したことで、謙虚さと親友になることだなって思う。賢い教師は

私をバカ呼ばわりすることもなく、かといって裁くこともなく、なんだか、こっちに来た方がいいよと手招きしてくれる。

その教師は、自分を低く見積もってこの世レベルで傲慢な人にペコペコしたり離れずに我慢して生きることでもないと教えてくれるし

謙虚さという教師と仲良しになればまず、自分を変なところには連れていくことはない。

 

建設的じゃない精神状態じゃない自分のアンテナに引っかかってワクワクして選んだ情報は

自分の暗黒面のアンテナでチョイスしているので、絶対自分を傷つける結果になって行く。

この「師」選びに失敗すると、その代価は途方もなくでかい。(それも学びだけど)

 

セミナー選びにしても教え選びにしてもサークル活動にしても病院選びにしても

その発信源の周りにどんな性格の人が集まっているのか、どうゆう音波なのかなどもよく感じることだ。

よく、その人の周りにどんな人が集まっているかを七人見れば、その人がどんな人かわかる。と言うが

これはどんなことにも言える黄金律のように思う。

「うんこ」には「ハエ」が群がる。

自分はどこにも向かっていけばいいのか、そしてどこにいくと自分が満足し続けられる幸せがあるのか。

 

 

その「師」「教え」「助け」呼び名は何でもいいが、その師は本当に俗事

(俗事と言っても欲望を埋めて行く生き方ではなく、 普通に懸命に生きることから外れないで生きること)

を 無視せず生きれる教えで自分の精神面の成熟度を成長させられていくように指導されて幸せになっているのか、非常に重要。

こんな事例をみたことがあった。

同じペーハー値の中にいると、同じものは見えないということがあるようで

会社を私物化しているオーナー企業で、

なぜか、そこで働くスタッフが私物化する方の比率が多く、 そして、なぜか、その私物化の態度は、会社側からしたら

「けしからん!!」となってしまうのは当然なのですが、ここに想念は源を離れることができるという考えを強化の力動が明らかなのですが

この狂気の想念は、首尾一貫して狂っているのに、その思考体系の中では、当たり前だが、筋が通っている。

この自分が何をしているのか(このケースなら私物化)に全く気づけない精神の精神構造と

人間関係の一連の関係性を見た時に、本当に自分のダークサイドをしっかり自覚することは益だなと感じる。

理想的な人間関係も、自分の精神のダークサイドの存在に気づかないと、投影してしまうメカニズムから逃れられないということ。

自分が他者の在り方や生き方の中に不正や利己的に感じるような場合は、

全部自分と関連していること(ダイレクトに同じことをしていてわかりやすい場合もありますが)

だからこそ、それを裁かず赦すことだと(これは、相手のわがままやひどい態度を肯定していくとか容認していくことではない)

これらの事例は、自分がやっている行いを他者の中に見て裁いているにしか過ぎず、

自分の心の中で神に対してやっていると信じている悪行を世界を作り出してその中に見て裁いているに過ぎないことを教えている。

 

 

自分はどんな方向に向かいたいのか、どんな風に生きたいのか これについて抜本的に妥協していると(諦めていると)

「師」選びを無意識のうちに妥協する。

厳しくても、その修練が、本当にどこに自分を連れていくのかってことだ。

言いたいことが言えないのと、言いたいことを言わないのとでは天と地ほど違い

慰めを必要としている自分の自我のプロセスは 馬鹿にしたり、

無視せず、本当にきめ細やかに癒したり聞いてもらったり満たしたりして

被害者意識の視点から本当に抜けられる実践をしっかりできるように下準備をしたほうがいい。

焦った学び方や癒しは、致命傷である。

罪悪感の後ろにある罪悪感は、強烈な暗黒面で この罪悪感から自分を守るために、私たちは色々なことをして逃げている。

最初、このことを理解すらしていないわけだが、これが自分の罪悪感から逃げていたことだったのかと

自分で自分が透けるところまできたときは、実践がまた楽になっていく

 

 

子供の頃の素敵な友人に出会わせてくれた時の 友達は「謙虚さ」だった。

だから、自分の中の「謙虚さ」という友人との関係を育むことは自分たちの幸せにとって大切なことだと感じる。

自分を幸せな方向に向かわせる裁量を持っている。

勤勉さも、非常に、幸せへ導いてくれる。

勇気もくれるし、いい友達と手を繋いでいくことが非常に人生をまっすぐ生きていけるんだなって思う。 

神に倣えば、神の子としての自分を思い出せる。

真の自己と神にかけた自分の煙幕を外して行くやり方を教わる機会に恵まれたことで本当に幸せに生きれるようになり

この世界を地獄にしていく必要からも解放される。

 

 

気づけば色々なことが変わった。 自分が小さい時は、時間の流れがすごく遅かったが今はめちゃくちゃ早い。

時間の流れも変わったが 今、急激に生き方が移行しているようにも感じる。

昔は、攻撃がもっと主流だったように思うし、 恐れで繋がり、恐れで相手をコントロールできる方が主流だったし、

それをできる方が、 人間として強いように思われていた時代だったように思う。

快楽という幸福感は、何年も味わっているとその内飽きてしまう位いつかは味がなくなってしまう「ガム」によく似ている。

創造という愛は、新鮮で、永遠に新鮮で飽きるということがない。この違いは歴然で、だから障壁を取り除くのだ。

今という時代は、自分の心の中にあるゴミをこの世界に投影して攻撃していると、益々生きづらい時代のように思う。

自分や神に対する間違った認識を変えていく努力をしないと

苦しくなってしまって生きられない時代のように思う。(自分に嘘をついて生きることが通用しないタイミング)

心が神との分離を信じ、 心の中で罪悪感を選ぶのをやめて天国を思い出せば、 地獄がいらなくなる。

地獄が必要なくなる。

悲惨さが必要なくなる。 加害も被害もいらなくなる。

赦しは、投影することをやめさせてくれる、 だから愛を通した人間関係を営めるようになれる。

ちょっと前までは、競争して相手に勝つことが主流だったが もうそうゆう生き方は、人気がなくなってきているように思う。

助け合うとか、協力しあって、仕事を回して行く感じ。 不思議とそうゆう風に生きていた方が呼吸もしやすく生きやすいし

何故か、人生も上向きなっていっていくし 助けてくれる人も、すっと出てきたり、出てきた階段を一歩一歩登って行くだけ。

世界のせいにしないで生きれるように成長すると、山の様にいいことがいっぱいある。

この世界でより健全に生きることにも成長できたり、 自分の間違いにいっぱい気づいていくことができる。

 

念願だった。自分の中の攻撃性の原因を知れること。

心の夜明けだな??。

無意識の中に隠していた罪悪感を それがみれるように成長したことで、霊を思い出せるようになって幸せになった。

優しい自己を感じ、心の中に光が灯ると、この世界は勇気を持って生きやすい。

心の中の光を常に感じられるようになれるまでの旅は大変だったけど小さな光でも常に感じれるようにまでなると、

人間は愛を支えにして 生きれるようになるから、 非常に楽しい気分を持続させやすい。

今、学校も、辛さや道徳心を行動レベルで規制によって促す学校は

以前は難関と言われて中々入れなかったような時代が今では100名以下。

人間はその子を信じて、束縛しないで関わると 何故か、自制心を自分で養って他人に言われなくても、自分でコントロールしたりする。  

いっぽいっぽ、神に出してくれる癒しの道を選んで着実に歩んでいこう。

 

 

最後まで通読ありがとうございました。今のあなたの何かのお役に立ったり響き合うものがあったら幸いです。

 

 

 

        

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