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「赦す」(許しではなく)3ステップ

 
 
あなたが親友・人・パートナーから裏切りを感じた時に攻撃ではなくて「赦す」(許しではなく)事をしようとする時、実はそれはとても簡単な事ではない事に気付きます。「赦す振り」でなく、本当の意味での「赦し」ができた時あなたの心に平安が訪れ、攻撃でなく「赦し」を選択した時に本当の平安と人の為の許しでなく、自分自身の為に許しをやった事に気付くと思います。そのぐらい素晴らしい体験になる事と思います。しかし「本当の 赦し」は簡単なものではありません!「赦す」をやる時に「裏切られた・攻撃された」という事実の中では決して「赦す」が達成されることはありません。裏切られた・攻撃された事実の中では、相手は酷い事をしたけど私は心が広いからあなたを許します(赦しではなく)、というスタンスになります。これで心の平安に到達する事は絶対にありません。ではなくて、「裏切り・攻撃された」ように感じるけど、実は自分が抱く罪悪感の投影にすぎず人が私に攻撃しているのではなくて、自分が自分を罰したい欲求から罰していたに過ぎなかったんだと。
「奇跡講座」を学ぶと段々と「この世界は自分が分離を信じることで自分で罪悪感を生じさせていること、そして世界はその罪悪感を投影するためだと気付きていくことを助けてくれます。」赦し(許しではなく)の実践を取り組みたい方は
 赦しの3ステップのワークショップを活用してみてください。

 

「許す」と「赦す」の一般的な双方の意味の違い
  • 「許し」とは、(存在するかのように見える)罪を許すこと。
  • 「赦し」とは、「もともと罪なんて無かった」と気づくこと。
  • 「許し」とは、願いを聞き入れること。許可をすることを主に意味する。
  • 「赦し」とは、罪などをなくすこと、宗教的なイメージがもたれる。
そして、「奇跡講座」が言っている「赦し」とは?

 

 


第7回 「今、私は自分自身を再び傷つけない。」

 

「今日、私は自分自身を再び傷つけない」✨✨
今朝は、「ワークブック」のレッスン330からの「今日、私は自分自身を再び傷つけない」と言う事についてお話しします。ただし、実際には、このレッスンそのものについてお話しするのではありません。

この主題概念に焦点を合わせ、それが何を意味しているのか、また、私たちの毎日の生活で、どのように役立つのかについてお話しするつもりです。

「奇跡講座」の学びで最も重要なのは、理論をどれほどよく理解しているとか、その形而上学をいかに雄弁に語れるかといったことではありません。本当に重要な事はあなたがそれをどう生きるかということです。

誰もが経験するような現実的な状況の全てにおいて、毎日あなたがそれをどう生きるか、ということです。つまり、自分自身の体をどのように軽減するか、他の人々と共にどのように行どのように仕事をするか…

ニュースに出てくる人々をどのように見るか、など…すべての普通の人々が遭遇するあらゆる種類の状況にどのように対処するか、といったことが重要なのです。要は、それらをこれまでとは違ったやり方で行うということです。

そして、このレッスン330が指摘している事は、(さらに、ある意味では、「奇跡講座」全体が、このことについての説明だと言えるのですが)…「私たちは自分で自分を傷つけていることに気がついていない」と言うことなのです。

ここで述べている「自分を傷つける」というのは、例えば、パンを薄切りにしようとして指を切るとか、熱いレンジに触って火傷すると言うようなことではありません。それは、「傷つける教師」を選ぶことにより、自分自身を傷つけると言う事について語っているのです。

「傷つける教師」とは、もちろん自我のことです。自我は、私たちが傷つかないようにするために、神を傷つけたと信じています。言い換えれば、神の完璧な一体性の1部分であり続けることが私たちを傷つけていたと、自我は信じているわけです。

そして、私たちが完璧な一体性からの分離を達成し、ユニークで特別で自立した一個人となるためには、神が傷つけられる必要があった、ということです。もちろん、そうしたことを意味する言葉がありそれが「罪」です。

つまり、私たちは、自らの創造主かつ源である神から分離することにより、神に対し罪を犯した、というわけです。その後の当然の成り行きとして生じてくるのが、私たちの罪悪感です。

自分がしたことについて激しい罪悪感を感じます。私は自分が存在できるようにするために、全く利己的に、自分の利益だけを考えて、神を犠牲にしたし、神の子を十字架にかけた。それから神の世界である天国とは正反対の世界を創り出し、その中で、私は他の肉体たちからは分離して、区別される一個の肉体として、存在している…

そうなると、罪悪感を感じないと言う事は不可能です。この罪悪感は、私たちのDNAに織り込まれており、私たちの「存在」の構成要素となっています。同じ表現を用いるなら、「愛」は、私たちの「実存」の構成要素であるといえます。「奇跡講座」は「実存」と「存在」を対象させています。

霊は「実存」の状態にあり、「存在」は自我の状態です。私たちは自分の「実存」を「愛」とする代わりに、自分の「存在」の構成要素を「罪悪感」としてしまっています。

私たちは罪悪感を感じることなく、いっこの肉体としてこの世界に存在することは不可能です。このようにして、私たちは自分自身を傷つけているのです。罪悪は処罰を要求するからです。ですから、「テキスト」第27章において、私たちは、自分の苦しみの数多くの原因の中に罪悪が含まれているとは考えたことがない(T-27.VII,7:4)と教えられます。罪悪が私たちの苦しみの原因です。

もっと厳密に言えば、私たちの苦しみの原因は、心が「罪悪を選ぶ」と言う決断をしたということです。罪悪自体が存在しないのですから、存在していないものがどうして苦痛を引き起こしたりできるのでしょうか?

「自分は有罪だ」という信念-それが私たちの苦痛の原因です。物理的な苦痛であれ、心理的な苦痛であれ、もちろん、その両方の苦痛であれ、同じことがいえます。ですから、「今日、私は自分自身を再び傷つけない」と述べるという事は、「自分がいかに自分自身を傷つけているか」を自覚するということです。

そしてこれは、現実的なレベルでは何を意味するのでしょうか?もし、私の罪悪感の原因が、自分は自らの源から分離したという私自身の信念であるのなら…そして、それがこの世界における私の人生に反映されるのであれば……この世界における私の罪悪感(=私の存在論的な罪悪感の影にすぎないもの)の源は、「私が他者から自分を引き離していること」ということになります。

では、私はどのようにして他者から自分を引き離すのでしょうか?彼を裁くことによって引き離すのです。私は、自分自身の欠乏感を埋めるための手段として彼らを利用しています。

これが、「奇跡講座」が<特別な愛>と呼ぶものです。そうすると、私は彼らに依存するようになります。
あるいは、私は、自分の罪悪感を除去すると言う必要を満たすために彼らを利用するので、私は彼らを増します。

それが、「奇跡講座」が<特別の憎悪>と<特別な愛>について語っていることです。<特別な憎悪>とは、私たちの不満や怒りや憂いの気持ちが向けられる対象の全てです。また、私たちが他の人々の行いのせいにしているそうした想念の全てです。<特別な愛>は、この世界やそこにいる人々が、私たちが望んでいると思っているものを与えてくれるときの状態です。

しかし、これら<特別な愛>と<特別な憎悪>のどちらにおいても、私たちは他の人々を、自分とは違ったものと見ています。それが「傷つけるもの」なのです。私たちの苦痛の源です。

「分離」もしくは「分離を信じること」が、私たちの苦痛の源なのです。それらが私たちの罪悪感を引き起こすものだからです。そのことが明確になったなら…「今日、私は自分自身を再び傷つけない」ということの意味は…

私は自我(=傷つける教師)を選んで、その導きに耳を傾ける事はしない」ということだとわかるようになります。自我の導きとは、例えば、「自分がもっと幸せになるには、他の人々を攻撃すればいい」…「他の人々を裁けばいい」、「他の人々に対し猛烈に怒ればいい」、「他の誰もが私に同意すればい」などです。あるいはまた、「自分の利害は他の人の利害とは異なっている」と宣言する時…

私は「自分で獲得したものを自分のものとして所有している」と思っています。私は、「あなたの無罪性」を私のものにしたいので、そのために、あなたに罪悪感を感じさせ、あなたを攻撃し、裁き、さらに、他の人々からも賛同を得ようとします。

ですから、「今日、私は自分自身を再び傷つけない」と言うレッスン330の主題概念を、本気で言うということは自分自身に次のように約束することです。「朝、目を覚ました瞬間から夜、床に着く時間までずっと、私は<傷つける教師>ではなく<愛の教師>を選びます」…

また、「<苦痛の教師>ではなく、<癒しの教師>を選びます」、と。そして、それは、次のことを認識しなければならないと言う意味になります。他の人々を裁いたり、彼らを自分とは違うとみたり、自分と彼らの利害は別のものと見たりすることが、私の不幸や落胆や不安の源であり…また、自分の漠然とした憂鬱や不快感などの源たということなのです。そして、神の平安を心に感じるためには、私自身が神の平安を望んでいなければならないわけですから…

私は裁きを放棄しようとする意欲を持たなければならない、と言うことです。ですから、それが、「聖霊またはイエスに助けを求める」と言うことが意味していることです。私は自分の裁きの思いとともに彼らの元へ行き、次のように思い出させてもらうのです。「それは私を傷つけるのだから、私の望んでいるものではない」ということを。
「だから、今日、私は再び自分を傷つけることを選ばない。」


今週の実践の一言「赦す」を実践する


” 歴史を紐解いてみれば、攻撃によって問題は真に解決しないのは明らか。非暴力主義がどのような有益は結果をもたらしているかは、書籍を読むと書かれている。犠牲の伴わない心の中で行って行く原因についての赦しの実践は必ず心に平和をもたらす ” 

 

今回の記事のライター  MIKA

最後まで通読ありがとうございました。
読んだ方の「独習」に何か一つでもお役に立てたら幸いです。

 

                    

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