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第19回 彼を知り己を知れば百戦殆うからず

 

※奇跡講座において、贖罪とは、自我を取り消し、分離への信念を癒すための、聖霊による訂正の計画。分離の後に存在するようになり、神の子の全員が、全面的な赦しによって、贖罪における自分の役割を果たした時に完了する。贖罪の原理は、「分離は一度も起こらなかった」ということ。     JACIM用語解説引用 → 贖罪




本日のコラムは、コースの中でいう「教える」について、ちょっと触れてみたいと思います。
皆さんは、「奇跡講座」の中のマニュアルに書かれている「教える」は、誰かにコースを教えることではないことをご存知でしょうか?コースを学ぶようになると、誰しもが、何かを必ず「教えてしまっている」ということが非常に見えてきます。コースの教えている「赦しの実践」をしていくと、例外なく、自分が癒されていくので、奇跡の延長が起こり、それがどうゆうことをなのか自分で理解できるようになります。

自分自身に向けている「裁き」の気持ちを正直に見つめていくと、それは「裁きの気持ち」を外に向けることで「真の問題」から逃れようとしている試みだと気づきます。そして、「聖霊の答えを受け入れる決断」を心のレベルでしていくと、周りの人にも癒しが起こったりする体験が起こっていきます。つまり、自分が癒されていけば、それが自然に周囲の人々にも伝わっていくわけです。

それが「奇跡講座」のマニュアルで「教えること」と言われているものです。
「不快感」に対して「裁きの癒し」を選ばず「訂正」受け入れていくことに「努力」していく筋トレをしていくと「赦し」の恩恵がどれほど大きなものかが実感されてきますが、それは私たちが思っている以上で、「この世界は幻想で、夢から目覚めていくことである」ということを色々な教えが色々な角度で語っていますが、例えば、ニューエイジなどで語られている「現実を目を覚ましていくことに使う」というのは、自分の体験したい体験を達せしていくために(欲しい状態をしっかり決めて、そして、執着せず、何も求めないような平安な心でいることで自分で求めなくても欲しい状態が向こうからやってくることに心が平安の状態を利用しているが、その目的をカモフラージュするような表現をとる)語る自分の自我の方便などを遥かに超越しています。自分が真の現実をあまりに忘却してしまっている事実に気付かされるこの体験は、本当に感動的ですし、「赦していく」とはどうゆうことなのか。その深さを垣間見ることのできる体験です。


ワプニック先生の「解説」の中に出てくる「助けを求める愛の呼び声」として「知覚する心の状態」とは
「助けを求める愛の呼び声」という風にしか知覚されなくなっていくことを指して言っているのか
それとも、相手が自我に従って、自分の罪だと思っているものを相手に見て、攻撃しているだけに過ぎず
それは「助けを求める呼び声」でしかなく、赦しを差し出すことで応じる。のみ(全面に)となってしまう
プロセスを指して言っているのか?

まさに「それしか見えない知覚」ということ。だから、私たちが完全に赦して聖霊につながっていれば、そのときは、「自分を攻撃している人」は見えず、「愛を求めている人」としか知覚できないし見えないということ。そして、それを100%いつもできる状態が実相世界で終着地点です。そこに至るまでのプロセスにおいては、相手を「助けを求めている人」と見て赦しを差し出すことができる頻度が高まっていき、だんだん自然に、それのみで応答することができるようになっていく・・・というプロセスを通過して行き、最終的には、「それしか見えない」という「癒された知覚」の状態となって行くということ。

ざっと、これだけ読んでも、相当、真面目な「意欲的」な「攻撃の放棄」が求められている「実践」だということがわかっていくでしょうし、本来、自分の「苦痛」や「怒りの原因」を状況や他者だと知覚される人の在り方の中や態度の中に、その「原因と責任」があると見なしていく「狂気」が「常態化」してしまっている私たちにとっては、この実践は、実にはっきり、しっかり、そうしていきたい(攻撃をどうしても放棄したい意思の元)意識的に取り組んでいきたい思いの中取り組んでいくから、取り組んでいけることであって、そうじゃない限り、この思考の逆転をしていく「筋トレ」の実践は100無理(無理というより、しない)というレベルの実践だということは察して戴けることと思います。もしかしたら、これを読んで、そこまで、他者に向かせている自分への攻撃の正当性は自己欺瞞だと認め「撤回」していく実践には「意欲的」になっていきたいと思っていないな〜・思えないな〜と気づかれるチャンスになったかもしれません。

それから「愛の呼び声」について。
ニューエイジ系の教えでも、自分の苦痛などを状況や他者の中に、その責任を見ないで、自分の中にあると認めていく角度は、共通して語られているので、聞いたことがある人は、いると思いますが、(厳密にもっと言えばニューエイジ系などの一般的に幅広く出回っていて私たちに馴染みのあるような視座は、自分の欲しい状態を決めて、その後、それに執着しないで、楽しんでいると、求めなくても望む現実君の方からやってくるように・・・自分の願望が三次元空間に現れるという(外界・状況・形が自分の好みになっていくという風に)教えが多いと思いましそうなることの中に、癒しや幸せがあると何の疑いもなく、信じているのが私たちの普通の在り方だと思います。そして願望実現テクニックは、色々なスキルがありますが、現実に執着しないで、平安な心の状態でいると「自分の望む形・体験・外的状況・外観が現れる」というように平安な心の状態をテクニック的に使ったり、不快感を手放していくと自分の思い通りの現実を使っていくことに使っていこうとするなど、その姿勢、それ自体が、既に「自我」だという点がクリアーに透けて気付けるのも、コースの恩恵の一つではないかと思います。こうゆう風な視点自体が、まだまだ、現実を変えようという態度や視点であって、自分を自我だと思っている自我としての私たちは、状況・外界・形などの中に幸せがあると大真面目に頑なに思っている一例ですし、コースで言えば、こうゆうことは、大部分が、忘却のベールの下の箱の中の事だということも、段々、実践していく中で気付かされていくことの一つですが、コースがどれほど、奥の深い話であって、心のメカニズムを、どれほど詳しく詳細に教えてくれているのか、そして罪悪感に苛まれている心を真に癒す助けを提供している教えだということを、益々、理解していくようになっていきます。赦しの実践をしながら、コースの教えている内容を自分の学びの延長線上から理解していこうとするのではなく、まっさらに、何を言っているコースなのか・・・ということを真剣に分かろうとして独習していくならば、最初は、チンプンカンプンでも少しずつ「概略」がわかってくるので、それだけでも、このコースが、全く違ったことを教えていることに驚愕することと思います。)

コースの教える「赦し」の実践の奥深さについて
心を罪悪から解放し、「裁きたい」と疼く(うずく)狂気から解放されていける一つの助けの道に、「奇跡講座」がありますが、私たちが行う「赦し」が、言葉で、どんなに、実践できている風な自覚を持ち、そのような体感で言っていても、本当は思いっきりイライラしていて裁いているだけなのに、その事実が認められなくて、否認して自分が慈悲深いから・・・という無意識の驕った自覚の感じ方からの「赦し」で、あの人は、闇が深くて苦しんでいて可哀想な「裁き」のキツイ哀れな人というように、微細でも、嘲笑している、蔑視している範囲の「赦し」の状態で、決して「愛の呼び声」として知覚している心の状態(在り方)ではなく、自分とその人は本当に同一で、その兄弟である、心が罪悪を信じて苦しんでいる「声」としては知覚していない知覚だというのも、「奇跡講座」が教えている「赦し」を真面目に実践する頻度が実際に多くなっていくと、こうゆう「破壊のための赦し」が透けて、善意とか高い霊性のように見せかけられているものの中にも隠されている自我の抵抗が、自分の中にも他者の中にも見えてきます。そして、それも裁かないようにするのも「奇跡講座」の実践の一部という、ものすご〜〜くコースの教えている「原因レベルでの赦しの実践」は「本格的に裁きの放棄」を助ける「罪悪感」を抱いている心のためのコースだということも気づかれていくと言葉にならない学びの醍醐味の深さを感じることと思います。
「一見死で終わるように見える生きる」を恥じたり、憎悪したり、諦めたりするのではなく、本当に現実を地に足をつけて両目をしっかり開いて、自分の人生を思いっきり生きて全面的に「赦し」の実践に熟達していけばいいこと。最終的には、「神」の体験が恐くなくなり実相に目覚められること。私たちの誰もが、心底求めているのは分離感のない状態「永遠」「生命そのもの」「光」「完璧な平安」の永続ですし、それ以外、私たちが満足するものはないことは、冷静に考えてみれば必ず理解できること。

赦しの実践を日々していくことに意欲を差し出していく中で、たった一度だけ「助けを求める愛の呼び声」として知覚された体験があったのですが、この体験は、忘れることの出来ないほど強烈な強烈な体験でした。私たちが思っている以上に、「愛を求める呼び声」として知覚される知覚は、慈愛に満ち過ぎていて、きっと、正しい心に繋がって、その知覚を体験したら、あまりの「愛」に言葉を失なってしまうことと思います。そして、びっくりするほど私たちは、自我が定着してしまっていて、自動操縦で五感を信じて、分離を強化する反応をしてしまうことをしっていきます。コツコツ、とにかく地道な「赦し」の実践への意欲の差し出しで、気づけば、あっと驚くほど、体験が変わってしまう。まさに、JACIM Q&A90『自分が消えることに対する恐れ」

以下Q&A90を抜粋引用
換言すれば、私たちが自分の自己を失ってそのあとただ消滅するというのではなく、何と同一化するかについての私たちの選択が変化し、そのあと、私たち自身が、自分が選択したものそれ自体になる、ということです。 このプロセスを旅に喩えるなら、それは、数多くの立ち寄るべき地点は事前に計画されているけれども、厳密な予定表はないという旅です。 あなたは道すがら様々な場所に立ち寄り、新しい気候や景色に慣れていきます。そして旅を続けるうちに、自分の旅の案内人をよく知るようになり、気楽に彼と一緒に居られるようになります。彼は、あなたが本当はまだ去りたくない場所から去るようにとあなたに強要することは決してありません。そして、あなたが先に進むための準備ができるまで、一緒にそこにとどまります。 彼には、あなたに遵守させなくてはならないような予定表はありません。次に立ち寄る地点は今の場所よりも更にいいところだと彼があなたに告げるとき、あなたは喜んでその旅を続けることを選びます。なぜなら、それまでに彼があなたに見せてくれたすべては、なかなか良いものだったからです。 案内人に対するあなたの信頼は徐々に大きくなっていきます。時には、あまりに朝早くベッドから叩き起こされるので苛つくことがあるとしても、あなたはそのあとで、彼がそのようにしたのは、あなたに次の美しい場所を見せるために、出立を待ちきれなかったからだということを理解します。 道行きはしばしばガタつきますが、次の地点に心地よく落ち着いたときには、あなたはそのようなことは忘れてしまいます。そしてあなたは、案内人は実はあなたのことを良く知っていて、厳密に何があなたを幸せにするかを知っているのだということさえ、わかり始めます。 これが、イエスが私たちを導くやり方です。 彼と共に旅を完了したとき、私たちは何も失わず、自分で可能だと思っていたよりもずっと幸福になるということを、イエスは知っています。けれども、彼はまた、私たちが、未知なるものや、自分を確実に忘却の淵に追いやるものと思われるものの中へと飛び込むことを、いかに恐れているかということも理解しています。

で解説されている、そのままの体験になっていくので、本当に、コースに導かれていく「目覚め」の道の体験は、自我のストーリーで体験していく「苦しみ」と表裏一体となっている「歓喜」や「喜び」ではない「脱帽」としか「とにかく」言いようがない、癒されていく救いの道ですね。


それから、もう一点ニューエイジ的な学びからのコースの学びへ移行する際の距離について。
私自身がニューエイジの学びの延長線上からコースに向かって行きましたので(私の場合は、宇宙人系のスピリチュアルでした。20年前に日本でブレイクしたバシャール系の二元のスピリチュアル)真の「奇跡講座」への移行は、かなりの距離があるので、移行は、本当に簡単ではありませんでしたので、ニューエイジ系の学びや、引き寄せの法則的なスピリチュアルの延長線上からコースにたどり着いて、惹かれて触れ始めている方は、「コース」は外界をよくしていく要素は微塵もない!!ということを認識して、その上で、本当に自分は、コースの教えを学び実践して行きたいのか?と自分に問うて、じっくり腰を据えて今までの学びは一度白紙に戻して、新たに学ぶ姿勢で学ばれることがオススメです。 最初の数年は、何か「哲学」とかを学ぶようつもりで、コースの考え方に「触れてみる」という感じで、「コース」が提供している「助け」は今の自分が本当に学びたいことで「実践」して「熟達」していきたいことなのかどうか・・・・ そうゆう「期間」を持った方が、逆にいいくらい教えている内容は、相当深く「速習」してくものでもないですし、逆にできるような「教え」ではないので、じっくり熟考されて、検討して見てその上で、やっぱり惹かれて、やるとなれば「一生」かけて学んでいくようなものだと認識されるといいかも知れません。


深部に渡り曲解なく「コース」が何を教えているコースなのか「のみ」を解説している
ワプニック解説を水先案内人にして「独習」していく恩恵について。

「曲解理解」から学んで実践していく場合と「コース」の教えている内容を深部に渡り曲解なく、そのまま教えられるレベルに達している教師から学んで実践していく場合では、享受していく恩恵が歴然に違うことも、もしかしたら、水増し理解からは、容易に中々見えないことの一つかも知れません。水増し理解のことをいうと、まるで批判しているように知覚して誤解される面があるのですが、単純に、「コース」の教えている「赦し」を歪曲して理解して実践して、それが「コース」の「教えていることだ」と勘違いしてしまって実践しているって思ってしまっても、非常に、もったいないのです。現実をよくしていくことに惹かれることは別に悪いことでも罪深いことでもいなくて、外界を自分の好みの方にしていくことに惹かれるなら「コース」など必要なくて、現実をよりよくしていくことをバックアップしてサポートしてくれるような教えは本当に沢山あるので、むしろ、そっちをしっかり学び実際に実践してみて、本当に体験していくプロセスを踏んだ方がいいくらいで、何も「苦戦」して、こんな分厚い「コース」を読む必要がないのです。ある方が、ケネス・ワプニック監修の正式な「ACIM」の存在を知らず、自分なりに「独習」されていた方がいて、すごく惹かれて、一生懸命やってきたんだけど心が癒されていっている気がしないんです。何かが違うような気がして・・・そんな問い合わせを戴いたことがあったのですが、結構、こうゆうケース耳にします。

ただでさえ、自我が定着している私たちにとって、定着している思考体系を訂正していくコースには、物凄い激しい抵抗を示しますし、そして、また、その抵抗のプロセスを通過していきますし、それに付け加えて、原書で学べても、曲解してしまうことが多いのに、ましてや、翻訳で学ぶということになれば、本当にニュアンスが変わってしまうわけですから、そうゆう観点から冷静にみても、書籍選びも大切です。(ただでさえ、翻訳から学ぶ難しさというのが、あるわけですから)そして、またそのことと違った話で、コースでも、ニューエイジ的に一人の教師を仰いでいくような(カリスマ教師)学び方なども好まれている風潮もありますし、神に対して巨大な恐怖を持っている私たちの罪と罪悪感の実在性を信じる信念の取り消しの癒しのプロセスの道は落とし穴がいっぱいなのです。だからこそ、知的理解でもいいから、しっかり押さえておくところは押さえておくことは大切です。

癒しの道は、個人に即しており、用意周到に組まれ、神の至福の体験が爆発的なトラウマ体験とならないように念密にサポートされています。曲解に気づいていくのも、実践のプロセスですし癒しのプロセスの一部です。しかしながら、それとは別な話で、私たち学習者が覚えておくと助けになるのが、このコースは、誰に勧められなくても一人で読み進んで行けて、一人で読んで行っても「それなりに何かを得られる」人のためのものだという点。これは大切な点です。私たちは真に心のレベルで癒されることを可能にしている一つの助けであるコースの教えを他者が理解できるように助けられるほど、進歩していないのに、
不用意に自分自身を「他者にコースが教えていることを教える立場」に、ついつい、置いてしまい、(他者に教えることが自分の学びの道を阻害してしまわないかどうかをよく自分自身で検討することの注意を怠ってしまう。)自分や他者を傷つけて「罪悪感」を更に強めていくことにコースを使ってしまっているケースもありますので、注意が必要です。

「不必要な混乱」を避けるためにも、コースが筆記者ヘレン・シャックマンさんやビルさんやワプニック先生が理解していた通りの理解「だけ」のコース理解が、人から人へ伝わっているわけではないということも知っておかれるといいと思います。(私たちの誰もが、外界や状況が幸せにしてくれると信じていますし、人を引率する立場や教える立場は、自我としての私たちには「特別性」が満たされ、そうゆう立場になりたがってコースを「自分の特別性」を満たすために使ってしまう傾向も否めない。)スピリチュアル探求は、時として心を牢獄から解放していく道なのに「普通に生きること」や「普通の人であること」を大きく忘却させてしまい、自我の賛美する「特別性」をただただ、強化していくための自我の目的のスピリチュアルにしてしまうことも残念ながら否めない点をポイントとして押さえていくといいかもしれません。


自分が好きな時に好きな場所にいける生き方が出来ることや体験したい体験が出来ることや事業で成功することやヒーラーとなり苦しみに喘ぐ人々を癒す人になれる中に、自分の苦しみを消してくれる良薬があると思ってしまうのは、もしかして、自我の教えに魅了されている私たちにとっての一番の誤診かもしれません。




本日の実践の一言  彼を知り己を知れば百戦殆うからず


              「彼を知り己を知れば百戦殆からず」
             「彼を知らずして己を知れば、一勝一負す」
           「彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し」

敵と味方の実情を熟知していれば、百回戦っても負けることはない。
敵情を知らないで味方のことだけを知っているのでは、 勝ったり負けたりして勝負がつかず。
敵のことも味方のことも知らなければ必ず負ける。

コースは私たちが何をしっかり、理解した方がいいのか詳細に説明しているだけでなく、読み込んで実践していくプロセス自体で体験していくので、その道中は本当に感動します。多くの場合・・・というか殆ど場合、問題は状況の中にあるという知覚ですが、その知覚こそ癒されるべき間違いで、その間違いに気づいて訂正を受け入れる実践も、容易なことではなく、まさに「彼を知り己を知れば百戦殆からず」コースの教える「赦しの概念」は「目覚め」の「孫子」という感じ。 自我に従っている「他者」も敵ではない。 唯一の問題は、「思考」分離を選ぶ心の中にある。 自分が取り組むべき対象がわからないと、実践しても、ぐるっと回って また違う夢を見ていくだけとなる。コースは、まさに「彼を知り己を知れば百戦殆からず」以上の深遠な「赦しの実践のカリキュラム書」

 


 

 

私たちは誰でも、神と共にわが家にいたいのです。なぜなら、神から離れていることが私たちの問題の核心だからです。けれども、どうゆうわけか私たちは、物理的に他人に近くことができれば(性的にであろうと距離的な近さによってであろうと)それが何らかの形で分離を取り消すことができるように感じています。明らかに、そのようにはなりません。なぜなら、問題は、肉体とは全く何の関係もないからです。
                                       奇跡の原理 232ページ


 

 

今回の記事のライター  MIKA

現象が好転していく事や望んだものが現れる中に「救済」や「自由」があるという大前提でスピリチュアルをスタートして、不快感を扱っても現象だけが好転していくだけで、自分の中に実は緊張があり苦痛があり裁きがあり
実際には、不幸だという事実に直面し正直にならざる得なくなる。
その時、現れたのが奇跡講座!!奇跡講座の今の現状は水増しが殆どという点と奇跡講座ワプニック氏の解説から奇跡講座が教えている内容を希釈なく学び実践していくように!という注意事項が記載された奇跡講座を紹介導入している「神の使者」という本がワンセットとなり私の元にやってきた。

大好きな場所:セドナ

 

 

 

 

 

 

 

 奇跡のコース(奇跡講座)を友に学ぶ3ヶ月コース。”神・真の自己を思い出す時間”

 

 

 

 

 

 

第11話 ファーストステップ怒りの取り消し

上記の絵、通常の私たちの在り方ですね。攻撃は色々な形態を取りますが・・・
第12話 見抜け!!不必要な感謝

上記の絵、よ〜〜く胸に手を当てて感じてみると心当たりありませんか?

第13話 奇跡講座の内容を希釈すると真の癒しの道から脱線していく。(その1)

私たちは誰もが幸せを求めていますし、幸福でありたい。と誰もが思います。

第14話 奇跡講座の内容を希釈すると真の癒しの道から脱線していく。(その2)

前回の続きとなります。自我は、この世界の幸福とされるものが相対的な概念でし・・・

第15話 もう「真の原因の罪悪感」に取り組んでもいい

「他者や状況の性にする生き方」が、実際どれほど自分たちを熾烈痛みと苦痛を・・・・

 (16話)(17話)(18話)

 


   

                             

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