第15回 神は愛なので罰せられません。「真の原因の罪悪感」に取り組んでも大丈夫。

 

※真の幸せとは?本当に本当の幸福を求め始めるとき・・・実は、それは私たちは霊的進歩の道歩んで行くとき。




「他者や状況のせいにする生き方」が実際どれほど自分を熾烈痛みと苦痛の体験を余儀なくさせているのかの実情を本気で知って実践していける恩恵に満ちています不幸から逃れたい一心の私たちなのに一向に「死ぬ為に生きている」ラットレースから抜け出れないし、実は抜けでようとする気持ちすら、もぎ取ってしまっている状態に気づけずにいる現状や想像を超えた「罠」とは、一体どんな「罠」でどんな風に私たちはその「罠」に陥っているのか・・・。

もう自分の心に本当に正直なってしまってください。

真の癒しの軌道に乗っても神に罰せられるどころか真の癒しの到来です。
(「罪」という概念を間違った見方で見ているためにこ肉体を攻撃のために用いています。)

不幸を持続させることや自我から解放されないことが、唯一の自己破壊(完全な愛を破壊して、この個人と いう体験を手に入れている)の罪を免れることの命綱であると信じ続けなくていい「福音」です。

自分の犯してしまった(愛を破壊してしまった。愛を追放できた。壊せた。)と、どうしても思いたい時、また個を体験したい時、自分の創造者になっていたいとき私たちは、絶対に「罪」は罰せられるべき「悪」である。と思い続ける試みを手放しません。しかし、こんな「事実」に直面し気づいていくのも、自分の自我の策略を勉強していく「意欲」にかかっています。

私たちが、快適な暮らしや自分の思い通りになる主従的人間関係や表面的な相思相愛の関係やそうゆう形態の中に幸福があると思いたい間は、夢から覚める実践はしていきません。幻想の世界に喜びがあると思って、それを体験したい間は、必ず「苦しみ」はワンセットになりますが、それ以上に自分で自分を満たすことが可能だと証明したいときは、苦痛を現実のせいにしないで、心の中に戻って手放している振りをしますし、「手放したくても・・・出来ない・・・」と落胆すらして、どうしても出来ないと自分に思い込ませ「罪」とは罰せられるべき「悪」ではなく「訂正」されるべき「間違い」である。を決して「全面的」に受け入れることをしたいと思いません。

何処かに必ず「人」や「状況」「その人の在り方」などなど「誹謗」することをしつつ「攻撃の想念」を微細だろうがあからさまだろうが、保持し隠し持続ける方に努力していきます。

夢は恐れで出来ているので、どんなに自分の好みの形態や関係でも偽装された恐れです。愛を通して繋がっていく関係性と罪悪を通して繋がっていく関係性は恐ろしいほどその内容が違います。この点に気づいていくプロセスでも相当な癒しの恩恵があります。

「兄弟が何もしていないことを赦す」実践ができるように着実に進歩していく行くためにも、まず理論の基礎となる骨組み段階から曲解無く理解していく必要があります。理論の概略を理解していくプロセスでさえ想像を超える激しい抵抗があるので、苦戦しますし、見事に自我の穴に落ちたりします。それでも、諦めず、コツコツ、地道に救われたい。本当に救われたい気持ちに、極めてまっすぐに正直になり「微細の闇も混在出来ない真の真実である平和そのものだけが唯一の実在である。」というどうあがいても嘘をつく事が出来ない「この事実」に自分で不純物ゼロの「正直さ」になって意欲を差し出していくことで、あらゆる自分への自己詐欺の重い重い堪え難い重りが消えていくプロセスを辿り出していきます。これは、言葉を超えてしまって、是非体験して生き合いましょう!!という程、言葉に出来ないものです。

実践は幸いなことに本当に地道で地に足がしっかりついていて普通に生きることを大切にし (スピリチャル全般がとにかく高慢になる傾向にな非常識な生き方も率先してしてしまいがちで、自由と称し単にわがままな生き方を肯定しているに過ぎないことに気づけなくなっているだけだったり、自我としての自分の策略にまんまとハマって、見事、脱線!!という落ちが余りにショッキングな程この霊的進歩の道には多いので、こうゆことを含めても真の「奇跡講座」の教えている内容+ ワプニック解説(加藤三代子氏による翻訳書籍)が大好きな一つでもあります。)
ていることころの奥行きの深さにも感服でしたが、(何故普通に生きることが大切なのかの意味も段々わかっていくのですが、この意味を知っていくプロセスも感動的です。)普通に生きることから外れず、日常で地道に「心のレベルで赦しの実践に勤しんでいると、体験は壮大なスケール感。確かに、困難なプロセスを確かに通過していきますが原因レベルで癒しを受け入れていく実践は、圧倒的に癒されていく経験で、知識で分かっていく様な錯覚や
形態が変容して、癒されていると知覚する、結局、癒しとは程遠い、まがい的癒しとは違い夢から覚めていくプロセスとは、こうゆうことを言うのか!!という理解や実感も伴いそれは、言葉を完全に超越していて、「人のせいにする生き方」の無意味さや特別性がどれほど陳腐で、しかも、どれほど私たちの「真の一体性」「自覚」「妨げる愚かしさ」なのかなど克明知っていくので、それだけを持ってしても、途方も無い癒しです。ただただ、救いは実在していることがわかり、嬉しくて涙が流れます。




「状況」や「他者」が「自分の不快感」の「原因」だと見て行くものの見方がどれほど壮絶な悲惨な状態へと私たちを追い込んでいるのかというその「実情」「実態」「事実」をもの凄いスケール感で知っていく体験です。
「真の愛」破壊する事など不可能だったこと。自分には、途方も無い苦痛を強いる結果を生じさせていたが、実相など変更不可能であり、どん引き100000000ほどの「笑えない」ブラックジョーク規模感です。

「罪」「悪」と感じる感じ方は「処罰」を連れてきます。自分が自分の創造者でいたい間は(この無意識の自分の願望に気づくのも日常で実際に実践をしていく中で思い出されていくものですので最初自覚は全くありません。)処罰の思考体系にしがみ付き続けます。それが、どんなに真の幸福からは遠ざかることで不幸になると分かっていても私たちは「罪」と「罪悪感」を取り消すことを絶対に容認しません。真の自己の体験より、分離した存在でいたとき、自分が自分の創造者でいたいとき、幸せであることなど放棄してでも・・・どんなに状況から罰せられるような知覚に苦しんでいても・・・断固として「状況が私を不快にする!!」と言い張り、その状況から脱け出すことすらせずひたすら、我慢すらして「状況のせい」だと言い張り続けます。

苦しいのは、状況のせいだ!!状況さえ変化すれば、絶対自分の苦しみはなくなる。と言い張って、「てこでも」自分の決断で自分に苦しみが生じてしまっているだけなことをどんなことをしても絶対に認めません。


また別の側面から切り込んでいくなら「自分の苦しみ」「原因」「状況のせい」にし続けることは、途方も無い自分へ「劫罰」ですから、(実践し始める前や始めたばかりの初期の段階では、自分が分離を信じる決断から生じた、自我の思考体系に同一化して「闇」のみしか自覚出来ない状態になっていることにも気づけていない状態からのスタートですので、自我の思考体系に必死にしがみついている状態であり「状況のせい」にすることで、救われていけると本気で思えている状態自体を自分で把握出来きない状態です。なので、知覚としてはまるで「状況のせい」にしていかない 「実践」は余計苦痛が増幅していくのでは??と感じるほどでどれだけ状況を原因にしていくことが悪夢なのかの実態に、どうしても気づきませんし気づけません。(まさか、自分を切り刻んで益々、癒しとは程遠く、真の愛を遠ざけることを一生懸命、一生懸命していること、している自覚を全く持てない様になっています。)


罪を悪に見て処罰していく思考のサイクルは当然苦しくなっていきますし、外的状況を原因にし続けていく仕組みの中での生き方は最終、苦しくて苦しくて仕方なくなります。だからこそ、何か他に別の道があるはずだ・・・とこうゆう情報などに本気でアクセスして実践し始めるわけです。




私個人で言えば「この世界はおかしい」という大声で割れんばかりの疑問でしたがイヤイヤおかしいのは自分だったのです。この世界がおかしいのではなく実は、「愛」を破壊することが可能だと信じた自分の心が非常に病んでいたこと。赦しの実践をしていくと、この狂気の実情に気づいていけるだけでなく真の癒しが心のレベルで起こりその反映として歪んだ知覚がドンドン修正されて、人間関係などに顕著に反映します。

形態が変るというより、間違った知覚が凄い修正されていくのです。これは体験していくと、もの凄く圧巻ですし楽しいですし、「不満」という感覚に出会った時それを表現するより、むしろ、それをサインにして、心のレベルに戻って聖霊を選択していくことが楽しくてしょうがなくなっていきます。

不快感は私たちにとって、唯一の手がかりになります。しかも、貴重な貴重な癒されて行く見逃せない「道しるべ」です。そのチャンスを自我のために使ってしまうことも、夢から覚める真の癒しの道には、ゴロゴロ落ちていますからそんな自分に忍耐強く優しくあることも重要な実践のポイントになってきます。

コラムの引用、コピーなどはご遠慮ください。

本日の実践の一言 自分の真の思いに本当に正直になってあげること。かっこつけない。

 

両親は、子どもが自分で創造するイメージを知覚するかもしれないが、彼ら自身は子どものイメージを創造は
しない。(換言すれば、自己イメージを決定するのは自分であり、他者はそれを強化するかもそれないが、
それでも、その責任は唯一、私たち自身にあるということである。)しかし、あなたはイメージではない。
もしあなたが、イメージ制作者の側につくとしたら、あなたは単なる偶像崇拝者ということになる。

                                 引用 天国から離れて315ページ


 

 

今回の記事のライター  MIKA

最後まで通読ありがとうございました。
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読んだ方の「独習」のお役に立てたら幸いです。

              Photo  Monument Valley  by mika

                             

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