第14回 「奇跡講座」の内容を希釈すると真の癒しの道から脱線していく(その2)

 

※赦しの実践を自我としての私たちが望む現実にするために希釈して誤用すると目覚めの道から遠ざかる

 

前回の続きとなります。



自我は、この世界の幸福とされるものが実は相対的な概念でしかないことを絶対教えてくれません。自分に間違った心があること、そして正しい心があること。これを明確に理解していくことです。自我としての自分は、これを曖昧にさせようとします。「罪」の自覚を感じさせないようにします。自我としての自分を絶対に侮ってはいけません。もの凄い奇術師であり、策略がもの凄いです。分離を実在とみなしたい心理状態から想起している思考体系側からすれば、自己保存のために沢山の防衛術を企ているのは当たり前ですので 自分が分離を信じる決断から生じている思考体系を絶対に軽視しないことです。コツコツ、コツコツ自分の闇の想念を見つけて光の元へ!!不快感が「唯一」の手がかりです。(ちなみに一見気分よく感じているフィーリングにも「赦し」の機会があります。)

状況
自分不快感想起させる原因見なくなることで、自分望む体験出来るようになると考えるのは、自我としての自分が真の癒しから遠ざけるための策略「奇跡講座」教義の内容希釈歪曲して世界のレベルに引きづり下ろして、状況(望む体験)を変えるために希釈してしまった実践幻想から幻想シフトしていくことしか出来なくなり真の癒しへ繋がっていく忘却ベール超えて原因のレベルでの真の赦しの実践を希釈してしまっているので、そこでは「真の癒し」起らないし「永続的な心の平安への癒しの道」に繋がりません。自我としての自分が自分に仕掛ける、このマジックに騙されないようにご注意あれ。

心の中の罪悪感を発見させないために自我は、あの手、この手で、はぐらかしどうにか見つけさせないようにしています。見つかったら、最後、私たちは原因のレベルで心を癒す目的に目の前の日常を心を癒す目的とすることをちょっとずつのペースであっても選び始めてしまうからです。心の中の罪悪感を癒す為に不愉快な出来事を「心」を癒す目的として使い出してしまうからです。こうなってしまうと私たちは神から創造されたままの神の子としてのアイディンティティの自覚が蘇ってきてしまう方向に向かいますので「罪」を自分の本質的な自分の一部だと思っている自我としての自分は必死に私たちが心であること。しかも「分離した心はないのだ」と気づいていく癒しのプロセスの軌道に乗っていかないように「形で心は癒せる。この世界に癒しはある。」と思いたくなる誘惑をあらゆる角度から偽装して、本当にしかけてきます。

その一つが、今日ご紹介する自我としての自分が自分に仕掛けてくる大マジックなのですが(原因のレベルで癒される方向に向けさせないトリック)そのプロセスを味わった体験からも微塵もそこには(状況変容させられる中に)「救済がない」事はハッキリ言えます。自我の教えは必ず、癒されないゴールに行き着くのですが、恐れや裁きがあっても幸せであることは全く可能だという理屈なわけです。(絶対無理です。)この自我としての自分が自分に仕掛ける落とし穴に入ってみる、つまり、この世界のレベルでの癒しで自分の心を癒していくことを頑張ってみるのも、そこにはないことがわかっていくので、そうゆう意味ではそれはそれでいいと思います。

そして、やはり希釈した実践の結果は、形態のみが変容していく様に見えるのみ「真の癒し」とは程遠いということも知っておかれるといいのではないかと思います。そうじゃないと「恐れ」は「自分の決断」から「生じさせていること」に実感から気づくことなく、自我を選ぶ「決断」から生じて来る「罪悪感」なのに、その「事実」に気づくことなく、ひたすら状況を好みのものに変っていくためや、 望む体験・体感をするために、エンドレスに不快感を捉えて手放していく作業となり、実践が自我の強化の徒労となっていってしまうからです。

自我としての自分の策略に気づかないと「奇跡講座」の内容をこの上なく薄めて理解します。そうすると「不快感」は自我としての自分の「好み」の体験に移動していくためのもの現象を変えていくために使っていくしかなくなる意味不明な袋小路となります。

こうゆう事例も、一つの自我の戦略で、他にも一杯、一杯の落とし穴です。
「奇跡講座」の論理を絶対希釈しないこと。「内容」希釈すると「実践」ができません

「普通に生きることを忘れず」コツコツ地道に実践していけば確実に「怒り」のトリックも自分で分かるようになり「怒り」から解放される方向になっていき(方向になっていくとは言っても、その意味は容易に出来るという意味ではありません。抵抗をコツコツ赦していく地道なプロセスです。)自分の決断から不快感は自分が生じさせていることに、ドンドン気づけるようになり「裁き」を手放せる方向に益々行きます。状況左右されない心の平安がどうゆうことかを知っていく方向に確実に導かれていきます。しかし、コース教えている内容を自分の自我に理解させて微細でも希釈してしまうと得体の知れないものになっていきます。

不快感の原因は状況から生じているのではなく、自分の心の決断から生じている!!と正気を取り戻していける貴重大切な癒しためのプロセスを自我としての自分にその道を譲ろうものなら自分の不快感が、この状況を作り出しているので、それを手放していくと目覚めていくとか、望む体験になるいう風に希釈や歪曲をして、状況の中に癒しや幸福があるという錯覚を益々、強化していく方に、うまくすり替えていきます。

状況の変化に幸福はある。永遠はある。自由がある。という凝り固まった信念をさらに強化していくスキル的なものに自我としての自分がしてしまうので忘却のベールを超えて時間と空間の外の「決断の主体」であることにいつまでたっても気づけません。

不快感を扱っていくと現実は好転していったり望む体験の幻想にいくことはありますがそこに魅了されていく様にしてくる自我としての自分の解釈に気づかず、実践希釈して自分好きなこと体験するために歪曲してしまうなら自分が「決断主体」であり心であり 恐れを作り出している張本人だと気づくところまでいけなくなってしまうので心の中の罪悪感を取り消していくことの出来る折角の機会が失われ「真の癒し」からは相当かけ離れます。

問題はこの世界にないことを自覚させ、真の自己を思い出して行く方向となり世界を消滅させることの出来る「奇跡講座」の助けを、自我は「分離は起きた」と強化していく方向に使います。「恐れ」で出来ているこの世界を平和に変えていくことが出来ると真っ赤な嘘を信じ込ませるのは自我にとってはお手の物。自分の自我を直視して行かない限り自分の自我がどの様に幻想を守っているのかを見破っていくことは不可能です。自分の自我は幻想を保持する動きを私たちに気づかれることなく巧みに誤用し希釈して実践していくように私たちの自我は、見事に仕掛けてきます。そして、私たちが真に求めている真の癒しとは別方向に向かいます。自我としての私たちが1番望んでいないことは自我から解放されること。これを自覚しないと、自我穴に落ちていることに、全く気づく事さえ出来ません。


私たちは自分が分離を信じるという決断から罪悪を生じさせ、自分の感じている罪悪を外に見るために投影から生じている知覚に捉われているので、「世界が消滅していく」と聞くと自分が消えてしまうという恐怖を覚える様になっています。肉体との一体感を手放すことに対する恐れがその一体感を支える思考体系を維持しているのです。自我としての自分というものが、本当に幻想を維持したいと思っていることが100まじりっけない所で自覚しないと余りに容易に夢を見続ける方に誤用していきます。とにかく、落とし穴が余りにも、余りにも、多くて、多くて「真の謙虚でありたい(自己卑下と謙虚は違います。」「絶対に希釈したくないからどうか導いて欲しい」と本気で思って、本気で内なる教師に導きを求めていく姿勢を大事に出来ない限り、即刻、有頂天です。(笑)
自分の良心というものも信頼しない方がいいです。(自我が相当潜んでいる)

一生涯学習と実践です。何故なら、初歩のほんの概略程度の論理の学びの段階ですら、きちんと学び実践して行くなら相当な癒される経験が始まっていくのですから、それだけを持ってしても相当な奥行きの内容で深遠な内容のコースということは、自分でわかっていくことになります。

本当の真の解放を心から求めるタイミングの者にとっては、一つの大きな確かな途方もない福音と言えます。


自我としての私たちとしては、まさに、上記の絵の様ですね。(笑)

自分の決断が「恐れ」「罪悪」を生じさせている原因だと気づくことは壮絶な惨めさ欠乏感一切外で取り消して行こうとしたく無くなっていくので心がもの凄い癒されていきます。これこそ、ホントにエキサイティングです。個人的に、大好きな奇跡講座の中の(M-19.2:5-7)正義とは何か118〜119ページの抜粋で

進んで行くにつれ、この道はかなり違ったものとなっていく。また、旅を続けるにつれて目前に現れてくる壮大さや、雄大な景観や、広々と開けていく眺望のすべてについて、あらかじめ知ることはできない。だが、それらの壮麗さは先に進むにつれて言葉に尽くせぬ高みにまで達するとはいえ、そうしたものでさえこの道程が消滅してそれと共に時間が終わるときに待っているすべてに比べれば、その足元にも及ばない

今日日本でもACIMを正確に翻訳された「奇跡講座」が出版されていますので、自分さえ望めば、「奇跡講座」を希釈なく勉強出来ることの幸運に恵まれています。まだまだ、ニーズはないと思いますが、本当に自分の日常の不快感というものを否認なく隠蔽ではなく本当に「心を癒す目的」で自分の見ている夢を使用していけるように成長出来るこの学びの機会の恩恵は計り知れないように思います。

私たちの関係性の多くが、激しい憎悪(間違った知覚によるもの)の蓋の為であるし多くの人付き合いが、巨大な憎悪(間違った知覚によるもの)の蓋。でも、一なる真の愛の代替えとしての人間関係が夢の中では神の愛を反映するものと変容していく体験は余りに言葉を超えていて、初歩の学びの初歩の段階においてですら、言葉でいい尽くせない表現不可能な体験をするのですから、その真価はどれほど深遠なのだろうと胸が高鳴るばかりです。

何度もしつこいほど書いていますが、
「奇跡講座」という「助け舟」を実際に自分の日常で実践していくには、論理の曲解ない理解が重要です。

沢山、超えていくハードルがありますが、本当にエキサイティングです。レベルの混同本当慎重にしっかり区別が出来るようになる事もポイント重要。罪悪感が愛を感じなくさせている防壁ですが、その本当の罪悪に取り組まないためにこの世界があるわけですが、「この世界は幻想」だからといって、それを否定して行くことにが何の意味もないという点を理解できるようになっていくのも、赦しの実践の恩恵の一つです。自分の決断が恐れや罪悪感を生じさせていることを理解していくようになっていくので、外的状況を自分の不快感の原因にしていかなくなります。ですから意図的、無自覚様々ですが「他者への密かな不親切」から益々解放されて行くことが可能になっていきます。(これは、わがままな人や依存心の強い人の言いなりになって自分を犠牲して相手の希望のニーズに答えたり満たしていくこととは全く違います。)(コラム12でも触れましたが)これは本当に言葉にならない体験です。愛が流れ出るのを妨害しないというのはこうゆうことをいうのか〜という感動極まりない感じですね。


それから、パートナーが蓋・人付き合いの動機も蓋だからと言って人付き合いをしないとか、孤立していくとかそうゆう風に普通に生きることから外れていくこととは違うという点も本当に実践していく上で非常に重要です。





生命保険をかけないことでもなく、家の鍵をかけないことでもない。この世界でやりたいことを我慢したり諦めたりする。ということでもない。他者から攻撃されているのに、それを、黙認したり我慢したりすることでもない。
ディズニー映画「アリス・イン・ワンダーランド」という映画の中の前半部分に出て来るワンシーンでアリスがバンダースナッチに追いかけられている途中で「待って!!これは、ただの夢よ、少しも怖くない。」逃げることをやめて「大丈夫、大丈夫」と自分に言いながら、目の前のバンダースナッチを見上げているシーンの合間に、これは確実に起きていること!!と認識している、ヤマネ(ネズミ)が「何をやっているんだ」とアリスを逃がすためにバンダースナッチの目をくりぬくことで、バンダースナッチが、自分の目を押えるために振った手がアリスの腕に当たり、アリスは腕に傷を受けながら、そのまま逃げるシーンに展開されていくのですが「この世界は幻想」という概念自分の自我で解釈して、この世界で生きるなら非常に、常識にからかけ離れた非常識な生き方になり易いので、そうゆう意味でも注意が必要です。レベルの混同についてもコツコツ学んでしっかり、どうゆうことなのかを実感から分かっていくことも重要なプロセスです。

この世界を否定するのではなく、全てのシンボルに「奇跡講座」の教えている概念を当てはめて実践していけばいい。常識見失う事無く普通生活していく中確実着実実践されていく。本当に「質実剛健」。体験は本当に言葉を超越しているのに、体感に魅了されることもない。歓喜の体験などプロセスで起ったりすることもあるのですが心が変ったりすることにはならないので重要ではないという点も知っておくとその体験に魅了されて「原因のレベルで行う赦しの実践」からズレてしまう可能性の自我穴にハマらずにすむので知っておきといいかもせれません。歪曲しないで本当の「奇跡講座」を学ぶことは堅実で着実で飾りや虚栄もなく確実であり誠実で本当に地に足が着いて、もの凄く地道でコツコツしているのに、すご〜〜く楽しい。

不快感は心の中の罪悪の取り消され癒されることを可能にする大切な大切なサインです。
今日も、赦しの為の聖霊と共に!!





分離信じる決断=罪悪生じる=処罰を自分に要求する。(尚かつ、処罰されるべきだと信じる様に要求)
この「=」の間にギャップとしての世界があって、煙幕となっているのですが、実際は「剣」は1本








地上に楽園は築けない。という自分への処罰を取り下げ聖霊からの癒し( 答え)を受け入れることが「赦し」
大いに自分の決断から罪悪を生じさせいる事実に目覚め処罰を取り下げていきましょう。

コラムの引用、コピーなどはご遠慮ください。

本日の実践の一言 自分の自我に原因のレベルでの赦しの実践をへの進歩の邪魔をさせない。

 

どちらを選びたいですか?本当に自分に正直になって聞いて見ると「自分が間違っていたことを認める」意欲が
湧いて本当に「光」とは何かを理解し始める道が見て行きます。


罪悪感や分離を補強し、私たちの真の故郷から更に遠く離れたところへ私たちを連れていくかに見える「変化」を求めるか、それとも、この世界において私たちが関わる関係を背景として、赦しを練習することで生じる「変化」すなわち私たちが故郷に帰ることを可能にする「変化」を求めるか、のどちらかです。
                                   引用 JACIM Q&A No.45より 
自我の「不変」は「変化することだけが変らない」ということです。
自我としての自分は、自分の解放の道を邪魔させたり解釈させたりしないことに意欲を持つ事は実践していく時
重要です
。自分の自我はまるで、変化が楽しいように思い込ませますし、夢の中で楽しめるように思わせます。


 

 

今回の記事のライター  MIKA

最後まで通読ありがとうございました。
このコラムはいかがでしたでしょうか?
読んだ方の「独習」のお役に立てたら幸いです。

              

      Photo Arizona パウェル湖Lake Powell)by MIKA 

      「猿の惑星」のロケ現場でもあったそうです。笑
       気持ちよかった〜〜。

 

 

 

 

 

 

 

 奇跡のコース(奇跡講座)を友に学ぶ3ヶ月コース。”神・真の自己を思い出す時間”

 

 

 

 

 

 

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