第11回 ファーストステップ怒りの取り消し

 

※自我の救済と見せかけた分離を強化していく計画がどう狂っているのか見抜け!!

 




上記の絵、通常の私たちの在り方ですね。攻撃は色々な形態を取りますが、内容を正直に見れるように
なると、全部内容は「創造主との分離は起きた!!の証明」への献身です。

私たちは、創造主との分離を信じ、その流刑の夢を見始めました。
その夢の内容は一体性が多様性になって非二元的なキリストの心が断片化して源から分離してしまい
お互いに独立していて争いあう狂った切片となったという夢です。
ここにいると私たちの誰もが完全に信じています。
分離を確信レベルで信じているから、ここに肉体を投影しています。
これが知覚に入ってくるまでにも、相当な赦しの実践のプロセスで認識に入ってきます。
肉体を投影して、肉体の中に入ってしまっているという知覚・・・・何と言う狂気
狂気が今では常識で、肉体ではない!!ということの自覚を取り戻すことの方が狂気に感じる程です。
このことを、知っていようとも知らないでいようとも、ここにいるという実感があるものは
分離を信じていますし、信じていれば、有罪宣告を自分にしています。
分離が起きたと信じれば、罪悪感を生じさせます。罪悪感は処罰を自分に要求します。
そして、罪悪感は「自分が処罰されるべきだ。」と信じなければならないと要求します。
私たちは、分離を信じていますので、そうすると、他者がいるような幻想は必然に結果で生じます。
有罪の私たちがやることは、相当奇妙な行動になっていきます。
どうなるかというと原因を外に見て、他者を攻撃して自分が救われていくという思考を行動化し始めます。
そして、他者に投影して攻撃しているようですが、実際は下記の様に自分を自分で非難して猛攻撃をしている
本当は心に戻りたくなくて真の罪悪感に直面しないための自作自演でしかないという、かなりの茶番劇なのですが
それが全く私たちには分からない様にしてある所がポイントです。



いかなる攻撃にも攻撃ではなく「もう全て愛で応じたい」と思う様になった時・・・・・
(思考の逆転プロセス(赦し)を本当に実践していくと、その様な心境に変容していくようになります。)
相手から何も傷を受けなかったと相手に示したいとのみ願う様になる時私たちは「真の赦し」を率先して
受け入れて破壊のための赦しではなく「兄弟が何もしなかったことについて赦す」を意味を本当に知り
実践したくなっていきます。それ以外の時は、ただただ、私たちは、問題(罪・罪悪)を外に見て、
相手や状況や環境等が自分の罪悪を生じさせたとして主張し自我の防衛システムに従って、ひたすら
分離を強化していく試みを(処罰)していくのみとなります。
問題(罪悪感)は自分の外側ではなく心の中に問題(罪悪感)があることをしっかり認識する事で
この認識は、自分の日常で浮上してくる不快感に対し「赦し」で応じていく実践する上で、
非常に重要になってくる認識です。
日頃、形而上学や心理学的メカニズムや赦しの概念を知らない場合、不快感に対しての私たちの反応は
他者や状況が原因だと知覚するのが常識的で通常だからです。そして、その見方は相当定着しています。
この事を知的レベルで理解しても、この世界に意味のある変化はある。
「この世界の中で問題が解決されることで癒しは起る。」と信じている。信じたい。という想いは巨大です。
やる気満々で取り組んでいても、私たちには原因のレベルで聖霊を選ぶ「赦し」は、
指を鳴らす様にそう簡単に出来るものではありませんし日々の地道な練習の中で進歩していくプロセスです。
奇跡講座の定義でいう忘却のベールの下の結果のレベルでの癒しには私たちは心を開き抵抗もなく率先して
取り組んでいきますが、原因のレベルでの癒しには途方も無い抵抗です
夢を見ている主体であることを忘れ夢の中の主人公になっている私たちには、夢を取り消すことは
まるで自分が取り消される様な知覚になるからです。これは意識での実践も同じ事です。
存在しないものが自分は存在していると思っているわけで、無いものをあるように信じているわけですから
それだけを考えても、その思考体系にしたら、原因のレベルで癒されてしまったら、自分が消えてしまうと
知覚しますので、自分が消えるのは困ると考えますから、それは必然の結果で、原因の癒しや解放への拒絶は
異常な程だという事は窺い知れますね。
信じる力の誤用の代償の規模感はちょっと尋常じゃないことが分かりますね。

無意識で苦痛が喜びと思い込んでしまっている状態の私たちは、実際は罪を実在させようとする動きに
忠実に従っていく方が旺盛な位です。分離は実際に起きたと思っている結果としての投影の肉体ですから
肉体として知覚している私たちには、原因が外にあると思ってしまうのは必然の結果です。

自我の思考体系の心理プロセスをよく理解することや自分の中に巨大な抵抗があることを
しっかり自覚することや「救済」に対する恐れが自分の中にあることを認識して勉強していく事は
かなり、想像以上に学びを助けてくれます。



何故、私たちは
外側の出来事や相手の言動で孤独や惨めさなどなど不快感を感じていると思ってしまうのでしょうか?
誰もが、攻撃・不仲・痛み等、その状況からの解放は癒しをもたらす感じて、どうしても望んでしまいがちです。
それほど、結果が原因と思い込んでしまっています
よく不快感を扱っていく実践がありますが、よくよく内容を聞いていると結局、状況からの脱出のための
想念操作の様なテクニックが殆どだという点を取ってみても、いかに原因は外にあると思っていたい
自我としての私たちの想いがどれだけ、強烈で尋常ではないことが分かってくると思います。
私たちは原因は自分ではなく、世界という結果の方が自分の苦しみの原因だと大真面目に思っているのです。
原因と結果が引き離されているとき、この滑稽さを知覚するのは容易ではなくなります。
結果が原因の様に見えているとき、原因は自分ではなく状況や他者ですから、自我の立法に従い
私たちは必然の結果で自分の罪を他者に見て他者を攻撃して自分が救われると信じそのように動きます。
これは、実際には益々分離を信じている信念を強化していく仕組みです。
つまり、罪悪感や恐れを益々実在のものとして深めていく仕組みです。
自我の思考体系は分離を信じている信念から生じていますから有罪の思考体系で、分離を証する方向へ
エンドレスに誘っていきます。有罪は必然の帰結で、処罰を要求します。




投影された結果が原因なのではなく、上記の絵を見て戴くと分かりやすいと思いますが
問題は映写機(心)の中にある罪悪のフィルムです。これが原因です。
この映写機とスクリーンとの間には、忘却のベールがあって、罪悪のフィルムが分からない様にするために
世界が作られています。肉体は決断の主体ではなく、存在していません。世界は投影された宇宙です。
世界(肉体・意識)は、時空間の外にある心が被る仮面の様なものです。
そもそも、分離を信じている心が学ぶ訳ですから、この説明する内容自体に壮絶な抵抗が生じます。
これ自体をそもそも理解したくないので奇跡講座の説明している怒りの起源や奇跡講座の定義する
概念というものを理解するまでにも時間がかかるプロセスです。
この絵を見て戴くと、分かると思いますが、結果であるこの世界を原因と見ていくということは
世界が私たちを生み出し、世界が私たちの夢を見ていることになって私たちは命じられるまま、
この世界が夢見る思いつきの筋書きに従って歩くしか無い道化師以外の道はなくなるということになります 。
もし、そうだったとしたら、私たちは逃げ道が完全になくなります。
どうすることも不可能ということになります。
私たちが夢を見ている主体ではなく、苦しみの原因ではないという時、これが私たちの選ぶものとなります。
しかし、世界が私たちを生み出したわけではなく、逆です。これは、赦しをしていくと知覚の修正が起こり
そのプロセスの中で少しずつ、正気さが取り戻されこの事実が実感されていきます。

創造主と分離してしまっているのが本当なら、私たちは、生きる幻想すら体験することもできません。
文字通り生命と分離して生きれる道理など普通に考えれば「無理」ということは分かることですし、
分離は不可能なのに不可能なことが起ったと信じて、この世界を生じさせているということです。
間違った心の部屋にアクセスしている時は、いつでも「分離を実在させ強化」していく方向に従っていきます。
分離を強化されていく形態は本当に多種です。形態は、一見、一元帰還に見えても、内容は分離を強化していく
ための自我の思考体系の枠組みの中で行われていることも少なくありません。
攻撃が取る形態も本当に沢山です。学びの初歩の段階で私たちが、何故「攻撃」したくなるか!!は
メカニズムを知ることで容易に理解出来ます。
そして、私たちが「怒り」や「攻撃」をどれだけ正当化しなければならない必要があるかを知ることです。
これは、途方も無いレベルの「必要」だと認識することは学びを本当に助けてくれます。
自我としての私たちは、攻撃されるのは嫌だけど、自我としての私たちはこの世界が消えて欲しくないと
思っていますが、この世界を持続させているのがまさに攻撃です。
内容は全て咎めや非難という攻撃ですが、その形態は多種多様な形態です。
奇跡講座の教えている内容と形態ということもよく理解していくことも学びを助けてくれます。

生は死を生み出す事が出来ず、生と死を統合することは不可能ですし
まさにこの世界は攻撃性を保持しながら無垢性を証明しようとする試みそのものです。

コラムの引用、コピーなどはご遠慮ください。


原因が自分の外ではなく自分の心の中にあったことを大いに喜びましょう。


本日の実践の一言 原因は忘却のベールの外側、時空間の外にある心の中にある。

 

美も善も相対的な概念だということを知る。この世界で体験されている喜びは本当の喜びではなく相対的な概念。
肯定的な側面も否定的な側面もどちらも幻想で二元的で知覚的宇宙に属する側面で二元的な分裂を反映している。
ということを知的理解で、まず受け入れてきちんと理解しておく。


 

 

今回の記事のライター  MIKA

最後まで通読ありがとうございました。
このコラムはいかがでしたでしょうか?
読んだ方の「独習」のお役に立てたら幸いです。

              

         Photo 沖縄 久高島から昇る太陽 by MIKA

沖縄の6月下旬頃、朝の5時半くらいに海で泳ぎながら久高島付近から上がる朝日を見るた喜びや平安は心の外にあるのではなく心の中にあることをより深く感じる機会でした。

 

 

 

 

 

 

 奇跡のコース(奇跡講座)を友に学ぶ3ヶ月コース。”神・真の自己を思い出す時間”

 

 

 

 

 

 

第11話 ファーストステップ怒りの取り消し

上記の絵、通常の私たちの在り方ですね。攻撃は色々な形態を取りますが・・・
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上記の絵、よ〜〜く胸に手を当てて感じてみると心当たりありませんか?

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第15話 神は愛なので罰しません。「真の原因の罪悪感」に取り組んでもいい。

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 第16話

 


   

                             

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